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ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その19 第一章/人間形成(取調べ) 警官が少し声を荒げた。「ボク、人が話しとる時は、顔をあげんか」。そう言って、俺の頭を押し上げようとしたのである。だが、結果的に押しただけのことになって、俺は勢いで椅子ごと後ろに倒れてしまった(これは後になって気付いたことで、当時は意識的にやられたと思っていた。ちなみに、最近の取調室の椅子はボルトで床に固定されて倒れないようになっている。全部の取調室がそうなっていると断言はできないが、少なくとも俺が厄介になったところはそうだった)。(令和7年1月27日)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その19 第一章/人間形成(取調べ) 警官が少し声を荒げた。「ボク、人が話しとる時は、顔をあげんか」。そう言って、俺の頭を押し上げようとしたのである。だが、結果的に押しただけのことになって、俺は勢いで椅子ごと後ろに倒れてしまった(これは後になって気付いたことで、当時は意識的にやられたと思っていた。ちなみに、最近の取調室の椅子はボルトで床に固定されて倒れないようになっている。全部の取調室がそうなっていると断言はできないが、少なくとも俺が厄介になったところはそうだった)。(vol.19)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

「今となってはあの界隈でも事件のことを話す人間もほとんどいなくなったし、ようやく、残った店でどうにか前向いて頑張ろうってタイミングなんじゃねえかな。あんだけあった店舗も今は4店舗になっちゃったしな」と宝島龍太郎さん(当時55歳)と妻の幸子さん(同56歳)夫妻と長年付き合いのあった取引業者の男性は話した。

「宝島ロード」で残って、サンエイ商事の経営で、今も営業を続けているのは、寿司屋、大衆酒場、焼肉、イタリアンの4店舗に過ぎないようだ。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <取調べ>

 パトカーは警察署の入口に横付けする形で停車した。俺たちは車から降ろされて署内に連行されたが、「悪いことをした」という感覚は俺には微塵もなかった。

 俺は万引きが悪いことなのはわかっていた。以後、年とともに悪行を重ねてゆくことになるが、悪いこととはわかっていても「悪いことをした」と思ったことはない。悪いこととわかっているのに、悪いことをしたという意識がないのは何故なのだろう? それは今でもわからない。

 警察署に初めて入った俺は、物珍しさも手伝ってキョロキョロとあたりを見まわしていた。そうしているうちに警官が呼びに来た。どうやら三人いっぺんではなく、別々に取調べを受けるようだった。他の二人がどこに連れて行かれたかはわからないが、俺が入れられたのは取調室だった。とにかく狭い部屋だった。

 俺の取調べに当たったのはパトカーを運転していた警官だった。俺は部屋の真ん中にあった机の奥の椅子に座るように指示され、警官は机を挟んだドア側に座った。取調室の中はこの二人だけだった。  警官はまず、

「おっ、もう昼やな。ボク、腹減っとらんか? 何か食べるか?」

 と訊いてきた。空腹を感じていた俺は、即座に答えた。

「うん、食べる」

「中華にするけど何がええ?」

「チャーハン」

「唐揚げも食べるか?」

「うん、食べる」

 警官は「ちょっと待っとってな」と言って取調室を出た。出前の注文をしに行ったのだろう。

 この場面で、刑事ドラマなんかだと出てくるのはカツ丼と相場が決まっている。俺はこの後、何度か警察の厄介になるが、カツ丼が出てきたことは一度もなく、だいたいは中華だった。警官は一、二分で戻ってきた。

「チャーハンは少し待っとったら来るで。それまで、ちょっと教えてくれるか、ボク?」

 警官はそう言って、住所、氏名、電話番号、生年月日、学校名、学年などを訊ねてきた。俺は「さっき警備員のおっちゃんに言うたのに」と思ったが、どうしても言わなければならないような感じがして、問われるがままに答えた。この「言わなければならないような感じ」とは取調室の中の重圧感とでもいうもので、さっき警官が「何か食べるか?」と訊いてきた時との決定的な違いだった。そのことは子供心にもなんとなくわかった。

 ひと通り訊いた後、警官が両親のことを質問したので、俺は

「お母さんは保険屋さん、お父さんは知らん」

 と答えた。

「"お父さんは知らん"って、何して働いとるか知らんのか?」

「お父さんはおらへんくなったで、知らんの」

 警官は「そうかあ……」と言った。

 質問が続く。

「他に一緒に住んどる人はおるか?」

「お兄ちゃんも妹もおれへんけど、お姉ちゃんがおる。おばあちゃんもおったけど、静岡に行ってまった」

「そうかあ。で、お母さんの働いとる保険屋さんの名前知っとるかあ?」

 俺は、当時母が勤めていた生命保険会社を言った。

「お母さんか学校の先生のどっちかに迎えに来てもらうことになるけど、ボク、どっちがええ?」

 俺は迷うことなく「お母さん」と答えた。そして心の中で「また、あのクソババァが怒られるんや。ザマァ見ろ」と喜んだのだが、一方で「家に帰ってから、またクソババァに殴られるんか」と思うと、うんざりした気分にもなった。

 ここで取調べは中断され、警官は「よし、またちょっと待っとってな」と言いながら出ていった。

 警官は今度も一、二分で戻ってきた。

「チャーハン来たで。一緒にメシ食おか」

そう言うと、警官は出前持ちが使うくすんだ銀色の岡持ちの中からチャーハンと唐揚げの皿を取りだして俺の前に置いた。警官が注文したのはラーメンだった。俺と警官は黙々と食べた。

 昼食が終わると、取調べが再開された。

「ちょっとおっちゃんに教えてくれる?」

「何を教えるねん?」

「何をって、ボクらでしたことや。何したかわかっとんのかあ?」

 警官が呆れたのも無理はない。俺はこのとき、万引きで捕まったことなどまるっきり忘れていたのだ。というより、捕まっていたという意識すらなかった。

「まあええわ。ほんなら、一緒にいた子の名前教えて」

 俺は正直に、木村と川原の名前を伝えた。すると、警官は「ちょっと待っとって」と言って、部屋から出て行き、またすぐに戻ってきた。恐らく、俺が本当のことを言ったかどうか、二人の名前を確認しに行ったのだろう。

「で、逃げた子が二人おるそやな。友だちか? 名前は?」

 この質問に答えることはできない。俺は黙ってうつむいた。警官は

「あのなあ、ボク。言わんでもええけど、言わなずーっとここに居らなあかんで。嫌やろ、そんなん」

 と言った。俺の様子から、知っていることを察知したのだろう。あるいは初めから、知っていると決めつけていたのかもしれない。 このとき俺は、「ずーっとここに居らなあかんってことは、家に帰らんでもええし、学校にも行かんでええんやな」と思い、「絶対に言わんとこ」と決めたのを覚えている。俺はうつむいたままでいた。 「あのなあ、ボクが言わんでも、あとでわかることなんやで。そんなら自分から言って、はやく家に帰ったほうがええんちゃうか?」

 それでも俺は下を向いたままだった。別に家なんかに帰りたくはなかった。

 すると、警官が少し声を荒げた。

「ボク、人が話しとる時は、顔をあげんか」

 そう言って、俺の頭を押し上げようとしたのである。だが、結果的に押しただけのことになって、俺は勢いで椅子ごと後ろに倒れてしまった(これは後になって気付いたことで、当時は意識的にやられたと思っていた。ちなみに、最近の取調室の椅子はボルトで床に固定されて倒れないようになっている。全部の取調室がそうなっていると断言はできないが、少なくとも俺が厄介になったところはそうだった)。 

 床に体を打ちつけた俺は、「何すんのや、このおっちゃん」と思ったが、何も言えなかった。自然に涙が出てきて、「うえっ、うえっ」と嗚咽を洩らした。警官の方も、まさか倒れるとは思っていなかったのだろう。慌てて席を立って、

「大丈夫か、ボク」

 と言いながら、俺を抱え起こした。

「ボク、男の子やろ、泣くなや、これくらいで」

 警官はそう言って、俺をもう一度椅子に座らせた。

 このとき俺は、「警官は殴る」ということを強く意識したが、すぐに警官から本当に暴力を受けることになる。

 改めて俺たちが向かい合った時、別の警官が入ってきて、取調べをしていた警官を呼んだ。そして

「ちょっと待ってな。それまでに泣くのはやめえよ」

 と言いながら二人で出ていった。だが、俺は泣き止まなかった。「くそっ、なんや、あのおっちゃん」という思いが強く、悔し涙が溢れてくるのだった。

 五、六分くらいたっただろうか、ようやく涙が止まると、警官が戻ってきて取調べが再開された。

「お、泣き止んだな。ちょうどええわ。ボク、大島と豊島って子知っとるか?」

 ビックリしたどころの話ではなかった。まさかその名前が出てくるとは・・・・・。当時は知らない言葉だったが、この時の俺にとって青天の霹靂とはまさにこのことだったろう。

 もう諦めるしかなかった。「なんなんや、このおっちゃん。なんで知っとるんや」と思いつつも、「知っとるんなら言うしかない」という思いに駆られた。俺はゆっくり頷いた。

「そうか、知っとるか。で、逃げた二人は、大島と豊島って子やな?」

 一度認めたというか、バレてしまったら是も非もない。頷くしかなかった。

「よしわかった。間違いないな」

 と警官はそう念を押すと、また「ちょっと待っとってな」と言い残して出ていった。

 俺は、どうして二人のことがバレたのか不思議でしょうがなかったが、あとで考えると木村か川原が白状したのだと思う。どっちがしゃべったかはわからないが、恐らく川原だろうという気がする。というのは、この件の後で俺に対する川原の接し方に変化があったからだ。

 警官は、今度はすぐ戻ってきた。そして「なんでラジカセを盗ったんや?」と訊いてきた。

「なんでや? 欲しかったんか?」

 なんでや……俺は、心の中でその言葉を繰り返した。

「なんで?」と、やっと訊いてくれた。これで言える。やっと言える……。ようやく楽になれるのだ。これまで悩まされていたことから解放されるのだ。

その一方で、「ほんとに言ってええんか」という迷いもあった。

 あの時、かなり強い葛藤があったことを今も憶えている。相当悩んだ。が、結局は言えなかった。もし押し倒された件がなかったら、「おっちゃん、助けて!」と、何もかもブチまけていたような気がする。学校のことも、家のことも……。

 迷っているあいだも警官は動機についていろいろ訊いてきたが、何度目かの「欲しかったのか?」という問いに、俺は力なく頷いた。

  <プロローグ>

 
ドラム缶女性焼殺事件「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その1 プロローグ 「簡単やろ。人を殺すなんて、こんなもんや……」しかし、もう後戻りはできない…………。(vol.1)

「簡単やろ。人を殺すなんて、こんなもんや……」

 薄笑いを浮かべた川村幸也が、牧原(仮名)に声をかけた。そして、
「そうだよね?」
と、俺に同意を求めてきた。

 ドラム缶の炎に照らされた川村の顔は、鬼そのものに見えた。俺は無言だった。

 俺の返事を待つことなく、川村は牧原にこう言った。

「お前も、こうならんでよかったな」

 ドラム缶の中の二人のように、生きたまま焼き殺されなくてよかったな、という意味である。佐橋(仮名)は、川村と牧原の顔に目をやりながら放心しように突っ立っていた。その時、俺の顔は蒼白だったに違いない。牧原は「へへへ」と笑っていた。

 俺の頭の中では疑問と不安が交錯していた。

 なぜ川村はこんなに堂々としていられるのか?

 なぜ牧原は笑っていられるのか?

 俺がビビっていることが川村や牧原や佐橋にはバレているのではないか?

 朝が来るまでにドラム缶の中身は燃え尽きてくれるのか?

 二人を殺したことが警察にバレるのではないか?

 白井(仮名)と池原(仮名)はどうなった?

 警察に捕まったのか?

 しかし、もう後戻りはできない…………

 
ドラム缶女性焼殺事件「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その1 プロローグ 「簡単やろ。人を殺すなんて、こんなもんや……」しかし、もう後戻りはできない…………。(vol.1)

 <事件の流れ>

 平成十二年四月四日、愛知県名古屋市千種区で女性二人が拉致される事件が起きた。約束手形をめぐる債権回収のトラブルがもとで、野村哲也とそのグループが、債務者である喫茶店経営者を拉致する計画を立てたのである。計画は実行されたが、債務者当人の拉致には失敗。結果、その場に居合わせた喫茶店経営者の妻と妹を拉致することになったのである。

 その後、犯行グループは二人を愛知県瀬戸市の山林へ連れてゆき、生きたままドラム缶に押し込み、ガソリンをかけて焼き殺した。

 殺人を犯したあと、彼らは死体の処理に腐心することになる。なかなか燃えきらない死体をチェーンソーで切断するなど、残忍な行為に及んだのだ。

 しかし、同年四月八日に、女性二人の遺体が発見され、同十日に野村、川村の二人が逮捕された。

 この事件に対し、名古屋地方裁判所は、野村、川村の両名に死刑判決を下し、上告審判で、最高裁判所第二小法廷は、「女性二人をドラム缶に押し込んで生きたまま焼き殺したという殺害の態様は極めて冷酷、非情かつ残虐という他ない」と理由を述べ、控訴審名古屋地方裁判所の死刑判決を支持し、被告側上告を棄却。こうして死刑が確定した。

平成十二年 四月四日
 川村幸也、野村哲也、牧原晃和(仮名)、牧原光希(仮名)、白井秀樹(仮名)、池原浩市(仮名)は共謀し、金銭・手形回収トラブルのあった喫茶店経営者夫婦と従業員を名古屋市千種区新甫町で襲撃し、背後から夫を殴打。喫茶店経営者から奪った乗用車で、妻と従業員を拉致。愛知県瀬戸市白坂町キャンプ場近くの山林で従業員の所持金、二万四千円などを強奪し、二人をドラム缶に入れ火をつけ焼殺。遺体をチェーンソーなどで切断し付近に遺棄。

平成十二年 同日
 白井秀樹、池原浩市 午前一時二十分ごろ、名古屋市千種区で深谷さんの車に乗っていたところを愛知県警が発見。強盗傷害容疑で緊急逮捕。

平成十二年 同日
 佐橋光希 正午過ぎ、事務所にいたところを捜査員に見つかり、強盗傷害の疑いで緊急逮捕

平成十二年 四月五日
 牧原晃和 午後五時ごろ、警視庁中央署に強盗傷害容疑で逮捕

平成十二年 四月八日
 経営者妻と従業員の遺体が発見される

平成十二年 四月十日
 川村幸也、野村哲也を強盗致傷容疑で逮捕

平成十二年 七月十八日
 名古屋地裁 川村幸也、野村哲也に対する初公判。川村と野村は起訴事実を認める

平成十四年 二月二十一日
 名古屋地裁 川村幸也、野村哲也に対する死刑判決

平成十五年 三月十二日
 名古屋高裁 川村幸也、野村哲也の控訴棄却 一審の死刑判決支持

平成十五年 六月十九日
 名古屋高裁 検察、弁護側双方の控訴を棄却、一審の名古屋地裁判決を支持。牧原晃和と同佐橋光希に無期懲役、白井秀樹と池原浩市に懲役十二年を言い渡す。池原は上告せず刑が確定

平成十六年 二月六日
 最高裁第三小法廷 強盗殺人や監禁などの罪に問われた佐橋光希、牧原晃和、白井秀樹三被告の上告を棄却。佐橋、牧原の両被告を無期懲役、白井を懲役十二年とした一、二審判決が確定

平成十八年 六月九日
 最高裁第二小法廷 川村幸也、野村哲也の上告棄却 死刑確定

 
野村哲也
ドラム缶女性焼殺事件「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その1 プロローグ 「簡単やろ。人を殺すなんて、こんなもんや……」しかし、もう後戻りはできない…………。(vol.1)

 <朝日新聞2000年4月8日夕刊記事>

 名古屋市千種区振甫町二丁目で四日未明、待ち状せした男たちが男女二人連れを襲い、女性二人を控致して山中で焼き殺したとされる事件で、愛知県警千種署の特別捜査本部が、別の強盗傷害容疑で逮捕した容疑者らの供述をもとに同県藤岡町北部の山林を捜索したところ、斜画から女性二人の遺体とみられる黒焦げの炭化物を発見した。近くでは、女性を入れて焼いたとみられるドラム缶二本も見つかった このため特捜本部は、女性二人が殺害されたとほぼ断定。容疑者グループが事前に切断用ののこぎりや焼却用のドラム缶を用意していることから、計画的な犯行とみて捜査している。

 殺害されたとみられているのは、名古屋市千種区振甫町二丁目、喫茶店共同経営者深谷洋子さん(六四)と、同居の従業員高橋勝子さん(五九)。

 捜査本部は今後、黒こげの炭化物が女性二人のものに間違いないか鑑定する。

 殺人の供述を始めたのは、洋子さんの夫深谷茂樹さん(五六)を殴って乗用車を奪ったとして強盗傷害容疑で逮捕された注所不詳、自動車部品販売会社社長牧原晃和(仮名)容疑者(四〇)と同県春日井市柏原五丁目、同社役員佐橋光希(仮名)容疑者(三七)。

 この二人を含む六人組の男は深谷さんを襲った後、一緒にいた洋子さんと高橋さんを拉致、粘着テープでぐるぐる巻きにしたうえ車に乗せて連れ去っていた。

 調べに対し、牧原容疑者らは「拉致した女性二人をドラム缶に入れて、生きたままガソリンをかけて焼いた。焼き終えるまで六、七時間かかった。 その後、二人の遺体をの こぎりで切断し、捨てた」 などと供述したという。

 また、牧原容疑者らは「遺体を焼くのに都合がいいようにドラム缶を加工し、下に空気穴をあけて焼却炉のようにした」 とも供述しているという。

 現場検証の結果、ドラム缶の中で女性二人が数時間かけて燃やされた形跡があった。特捜本部は近く容疑を殺人に切り替えて牧原容疑者らを再逮捕する構えだ。これまでに特捜本部は牧原容疑者ら四人を強盗傷害容疑で逮捕。同じ容疑で指名手配している二人の男も、殺害現場にいたとして行方を追っている。

 特捜本部は事件の背景に金銭トラブルがあるとみているが、殺害方法があまりに残虐なことから、ほかにも動機があったかどうかを追求している。

 <第一章/人間形成(母と姉)>

 俺が生まれたのは昭和四十四年である。生まれてすぐの記憶はもちろん皆無に等しいのだが、三つか四つの頃のことはかなり具体的に憶えている。とくに、自分の身に降りかかった危険なことについては極めて鮮明に記憶していると言っていい。

 当時、俺の一家は岐阜市長良春田の借家に住んでいた。

 ある日のこと、「ロバのパン屋」が近所に来た。そのパン屋は軽トラックではなく、本物のロバが屋台を引いていた。俺は、祖母にもらった小遣いで蒸しパンを買い、ロバに食べられないように用心しながら、その見慣れない動物に触ったことを覚えている。

 その夜、母が風呂に入っていた時、姉が鏡台の前で髪を梳いていた。俺は姉の真似をしようとして、鏡台の上にあった櫛のようなものを手に取って、自分の髪を梳いた。その時、かなりの痛みを感じたはずなのだが、それ以上に衝撃を受けたのはいきなり鏡に血しぶきが飛んだことである。

 泣き叫ぶ俺の声を聞きつけた母が、風呂から飛び出してきた。そして、血を見るや否や、バスタオルを俺の頭にかぶせた。目の前に垂れかかったタオルが見る見るうちに血で染まっていった。俺が櫛だと思っていたのは、どうやらカミソリだったらしい。その時、タオルに遮られた狭い視界から、母が姉を殴り飛ばす光景が飛び込んできた。

 当時、俺になにかあると、母は決まって姉を叱った。その時も、姉がしっかり見ていればこんな事故はなかったはず、という理屈だったのだろう。そのことが引き金になったかどうかはわからないが、それから姉は俺をどこかに置き去りにするようになった。

 俺が補助輪つきの自転車に乗れるようになった頃のことである。姉とその四、五人の友人たちが、
「自転車で遊びに行くからついておいで」 
と誘ってきた。辿りついた先は墓地だった。そこでかくれんぼをしようということになり、順番で鬼になった。夕方近く、俺が鬼になる番がきた。百まで数えてみんなを探す。だが、誰もいなかった。自転車を見にゆくと、俺のしか残っていなかった。

 近くに民家らしいものはなかった。まわりは次第に夕闇に包まれてゆく。いくら幼児でも、墓地がどんなところであるかくらいはわかる。恐かった。俺は泣いて叫んだ。姉の名を呼んだ。

 あたりが完全に暗闇に支配され、ずいぶん時間がたった頃、「哲也ぁ―、哲也ぁ―」と俺を呼ぶ声がした。俺は涙声で「ごごー、ごごー」と応じた。

 母が姉を伴って現れると、安心した俺はさらに泣きじゃくった。チラリと姉を見ると、目が真っ赤だった。母にこっぴどく叱られたのだろう。

 また、こんなこともあった。

 姉とその二人の友人で岐阜のホテルに行った時のことだ。姉はホテルの廊下で、
「誰か人が来たら言うんよ。わかった?」
と俺に言った。どういうことかよく理解できなかったが、とりあえず俺は頷いた。とにかく、人が来たら姉を呼べばいいということなのだろうと。

 姉は友人と一緒にカミソリやチリ紙の自動販売機をひっくり返し始めた。当時の自販機は今と違ってそれほど大きくはなく、女の子数人の力でも楽にひっくり返すことができたのだ。

 「何をしとるんや?」と俺がいぶかしがっていると、逆さになった自販機からジャラジャラとお金が出てきた。姉たちはそれを集めて、自販機を元に戻した。そんな行為を、最上階から始めて下へ下へと降りていった。

 何階に差し掛かった時か正確には覚えていないが、一階に辿りつく前に誰かがやって来た。俺は「お姉ちゃん!」と叫ぼうとしたが、それより早く「こらーっ、何しとるっ!」と男の野太い声がした。姉たちが一目散に逃げ出したので、俺もすぐにあとを追いかけたが、当時俺は四歳で、姉とは学年で五つも違った。追いつくわけがなく、俺だけが捕まってしまった。

 俺を捕えた男は、
「ボク、何しとったんかなー」
と、意外にも優しい声で言った。姉たちが何をしていたのか、子供心にもだいたいのところは理解していたが、
「ボク、良くわからん」
と答えた。

「今の女の子達、ボクのおねえちゃん?」

「うん、そう」

「ボク、ちょっとおじさんのあとについてきてくれるかなあ」

「うん」

 男が手を差し伸べてきたので、俺はその手をつかんだ。

 男に連れていかれたところには事務机が置いてあって、女の人が座っていた。恐らく警備室かなにかだったのだろう。男は俺をソファに座らせると、女性になにか囁いた。そして女性が出ていくと、事務机の椅子をソファの前に持ってきて座った。

「ボク、名前は?」

「野村哲也」

 俺は本名を言った。

「ボク、どこに住んどるの?住んどるところ、わかるかなー」

「長良の春田」

 当時の俺はそこまでしか知らなかった。

 そんなやり取りの後、さっき出ていった女性がお盆にオレンジジュースとサンドイッチを載せて戻ってきた。彼女は、
「ボク、お腹すいてない?」
と言いながら、ジュースを俺の前に置いた。緊張した俺は、交互に二人を見た。すると、男は「飲んでもいいよ」と言い、女性は「これも食べていいんよ」と言った。俺は頷いてジュースをすすり、サンドイッチに手をつけた。場違いな話だが、正直「おいしい」と思ったのを憶えている。

 しばらくして男が女性に何か囁きかけて、今度は自分が出て行った。残った女性は俺と遊んでくれた。

 何時間か経った後、男が戻ってくると、なんとその後ろに俺の母と姉がいるではないか。姉のほっぺたと目は真っ赤だった。きっと母に叩かれたのだろう。俺は母と姉のほうに歩み寄っていった。全て露見したに違いなかった。母は「すみません、すみません」としきりに謝っていた。

 姉は俺だけにわかるように、囁きかけた。

「アンタ、ほんとにとろいねー。バーカ」

「とろい」とは、間抜けという意味である。俺は泣いた。(vol.2)

 
ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その3 第一章/人間形成(優しかった祖母、恐かった父) 俺は毎日毎日俺の大便を洗ってくれた祖母が大好きだった。父に関しては、いやな記憶しか残っていない。ある時、家の外で男の叫び声がしたので、恐る恐る雨戸の隙間から覗くと、片手に包丁を持った父が意味不明な言葉を口走りながら走りまわっていた。(vol.3)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 2024年7月18日、栃木県那須町で4月、宝島龍太郎さんと妻の幸子さん夫妻の焼損した遺体が見つかった事件で、東京地検は、関根誠端、夫妻の長女の宝島真奈美、前田亮、姜光紀、若山耀人、佐々木光、平山綾拳ら7人を殺人罪で起訴したと発表した。

 起訴状などによると、7人は2024年4月15〜16日、共謀して、宝島龍太郎さんと妻の幸子さんを殺害したとされる。

 
ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その3 第一章/人間形成(優しかった祖母、恐かった父) 俺は毎日毎日俺の大便を洗ってくれた祖母が大好きだった。父に関しては、いやな記憶しか残っていない。ある時、家の外で男の叫び声がしたので、恐る恐る雨戸の隙間から覗くと、片手に包丁を持った父が意味不明な言葉を口走りながら走りまわっていた。(vol.3)

 その24年前の2000年4月4日、愛知県名古屋市千種区で女性二人が拉致される事件が起き、同年4月8日に、女性二人の遺体が発見され、同10日に野村、川村の二人が逮捕された。

 両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <優しかった祖母、恐かった父>

 当時、俺の家には祖母が一緒に住んでいた。長良幼稚園に通っていた俺の送り迎えは祖母の役割で、俺は小学校一年生くらいまでは、この祖母から生まれてきたと思っていたほどである。

 その頃俺は、帰りのバスの中でほとんど毎日といっていいくらい大便をちびっていた。だから、バスから降りた途端、祖母は決まって「今、ウンチは?」と訊いたものである。俺は決まって「さっき出た」と答える。なぜかバスが止まる直前に出てしまうのだ。そんな俺に、祖母は怒りもせずにっこり笑って、

「じゃ、すぐお風呂やねえ」 

と言って、俺の手を取って歩き出していた。

 祖母の右手人差し指と中指の第一関節付近は、なぜか黄色く変色していて、さらに小指の外側も黄色かった。不思議で訊いたことがある。

「おばちゃんのここんとこ、まっきっきやね」

「ここはタバコでまっきっき」

と、祖母は中指と人差し指の間を見せた。そして小指をかざして、

「ここは哲っちゃんのウンチでまっきっき」

 毎日毎日俺の大便を洗っていたせいということはないだろうが、祖母はそう言った。俺が

「ボク、ウンチせんほうがええかなあ」

と言うと、

「したい時にしな。洗えば済むんやで」

 また、俺は小便も垂れ流し状態で、小学三年生くらいまでおねしょをしていたほどである。祖母が、

「しっこも?」

と訊くと、

「うん、しっこも」

と、笑っていたものだ。俺はそんな祖母が大好きだった。

 あの頃の俺は、父親とか母親とか、祖母、姉といった家族関係を正確に理解していなかったようだ。母は「おかあ」さん、姉は「おねえ」ちゃん、祖母は「おばあ」ちゃんという名前だと錯覚していたようなところがある。ただ、父のことを「おとう」さんと呼んだことはなかった。

 父はほとんど家にいなかった。父に関しては、いやな記憶しか残っていない。

 その夜、晩御飯はスキヤキだった。生卵をといて、それに煮上がったスキヤキの具材をつけて食べるのが我が家の習慣だったが、俺は残った生卵を最後に飲むのが好きだった。

 そんな姿を見ていた父が、

「哲也、俺のも飲むか?」

と訊いた。なぜだか覚えていないが、俺が

「いらない」 

と首を振ると父は血相を変えて怒りだし、いきなり俺の額に茶碗を投げつけてきた。俺は泣いた。

 ある時、家の外で男の叫び声がした。恐る恐る雨戸の隙間から覗くと、片手に包丁を持った父が意味不明な言葉を口走りながら走りまわっていた。

 数日後、明け方に母が俺を起こし、服を着せて朝一番のバスに乗り込んだ。母は、姉と祖母を残して父から逃げ出したのである。

 途中はまったく覚えていないが、辿りついたのは三重県の四日市市生桑町というところだった。これ以後、長良春田の家に帰ることはなかった。

 四日市ではオンボロのアパートに住むことになった。しばらくして姉が来て、俺が幼稚園の年長組に上がる頃、同じ町の新築コーポに引っ越した。同じ頃に祖母もやって来た。

 姉が小学五年に転入した市立三重小学校の通学路の途中に保育園があったので、俺は姉と一緒に徒歩で通った。しかし、姉はそこでもよく俺を置き去りにしたので、泣きながら一人で通うことが度々あった。(vol.3)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その4 第一章/人間形成(楽しかった小学一年生)小学校入学というのはほとんどの子供にとって胸躍るほど待ち遠しいもので、俺も楽しくてしょうがなかった。学校ではなく、楽校だった。そして、家に帰ればいつも大好きな祖母がいた。たまに母が知らない男を連れてきたが、たいして気にはならなかった。俺にとって祖母は母以上の存在だった。(vol.4)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 2024年7月18日、殺人容疑で逮捕した夫婦の長女で会社役員の宝島真奈美容疑者を死体遺棄と死体損壊容疑で再逮捕した。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <楽しかった小学一年生>

 昭和五十一年四月。俺は姉と同じ三重小学校に入学した。母は俺に子供用のスーツを着せ、半ズボンに白いタイツをはかせた。記念写真にはその姿でおさまっている。

 入学してすぐの身体測定で、俺の視力に問題があることがわかった。母と眼科に行ったら、近視ではなく遠視であるという。店に行ってまずメガネをこしらえ、そのメガネを持って再び眼科に行った。医者は俺に

「それ以上度が強いのはないから、そのメガネで見えるようになるまでそこに座ってなさい」
と言った。

 ずいぶん長いこと視力検査標を見ていたが、全然見えてこない。座ったままでいると、

「アンタ、まだ見えへんの?」
と、母が言った。

「うん、まだ見えへん」

「もう、しゃあないねえ」

 母は呆れたようだが、見えないまま時間だけがどんどん過ぎていった。

とうとう母が業を煮やして、
「アンタ、ええ加減にしなさい! まだ見えんの」
と怒鳴り出した。

 それでも、見えないものは見えないのだから仕方がない。

 母は
「もう知らんよ。置いて帰る!」
と、ブチ切れてしまった。

 置いてゆかれるのは死ぬほど嫌だった。

「そんなん言っても、見えへんもん」

 俺は泣きながら訴え続けた。

「見えへんもん」と。

 気の毒に思ったのか、ようやく医者が口を開いた。

「お母さん、そんな怒ったら見えるもんも見えへんやろ」
と母を諭し、俺には
「ボクももう泣かんと、そのメガネ掛けて帰ってええで」
と言った。

 俺は泣きながら立ち上がり、黒ブチのでっかいメガネを掛けたまま母の後に続いた。

 眼科の廊下の床がフワフワしていた。

 そんなことがあったものの、小学一年生の頃は総じて楽しい思い出の方が多い。

 あっという間に一年が過ぎてしまったような気がする。

 そもそも小学校入学というのはほとんどの子供にとって胸躍るほど待ち遠しいもので、俺も楽しくてしょうがなかった。勉強も楽しかった。

 毎日学校に行くたびに新しいことを覚えるのだから。とくにテストは大好きで、「クイズとテストのどこが違うんやろ」と感じていたほどである。学校ではなく、楽校だった。

 仲のいい友達もできた。一緒に登下校し、みんなで笑い、時には些細なことでケンカもした。

 泣いた時は当時流行っていた「がんばれ!!ロボコン」のマネをして、こぶしを握り占めた両腕をぐるぐる廻して相手にかかってゆくようなことをみんなやっていた。

 ピンクレディの「UFO」の振りを覚えて踊ったり、犬の糞を踏んだ誰かを「エンガチョ」とからかったりもした。

 近くの公民館に落語家の桂きん枝が来た時のことである。なぜか俺が舞台に上げられたのであるが、恐らく目立つメガネを掛けていたからだろう。きん枝が

「ボクのそのメガネ、近視?」
と言ったので、俺は
「ちゃう。キンシはアンタ、ボクは遠視。よく目が見エンシ」
と答えた。

 小学一年生にしては上出来の駄洒落に会場は笑いに包まれたが、一番楽しんだのは俺自身だったような気がする。

 そして、家に帰ればいつも大好きな祖母がいた。

 たまに母が知らない男を連れてきたが、たいして気にはならなかった。

 そんな男が二、三人はいたような気がするが、男たちはみんな俺に優しかった。そのうちの一人はトラックの運転手で、時折トラックに乗せてくれたりもした。

 当時、母は保険の外交員をしていたが、夜はキャバレーでアルバイトをしていた。

 その関係で男たちと知り合ったのだろうが、もちろん当時の俺がそんなことなど知るよしもない。

 ただ毎日が楽しかっただけだ。

 小学一年生があと一、二ヶ月で終わろうとしていた頃、再び引っ越しの話が持ち上がった。四日市市三重にある市営団地の入居の抽せんに当ったのである。

 あの頃の市営団地の入居競争率は相当なもので、かなりツイていたといえるだろう。五階ということで、階段の上り下りが辛い祖母が難色を示したが、それでも結局は引っ越すことになった。

 俺が小学二年になり、姉が中学に上がった昭和五十二年四月のことである。

 団地はいわゆる三DKで、中学に上がった姉が一人部屋を要求し、祖母が四畳の一人部屋、そして母と俺が一緒の部屋ということになった。

 寝室は母と同じだったが、母は昼夜なく働いていたので、俺の面倒は相変わらず祖母が見てくれた。

 俺にとって祖母は母以上の存在だった。(vol.4)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その5 第一章/人間形成(恐怖、屈辱、敗北感) 「行くぞっ、パラシュート部隊!」と叫んで、俺の腹の上に飛び降りてきた(体ごと落ちてくるのではない。ヒザ蹴りが上から落ちてくると考えればいいだろう)。激痛が襲う。吐き気がし、「ぐえっ」といううめきとともに涙が出てきた。しばらくして少し落ち着き、先生(担任)へ「今度は言える」と思った。だが、保健室に来る途中で木村が言った「また、パラシュートやで」という言葉が甦って、結局、俺は何も言えなくなった。一人残された俺は、悲しさと悔しさが入り混じった感情が込み上げてきて声を殺して泣いた。今にして思えばこのとき、俺は小学二年生にして恐怖と屈辱と言い様のない敗北感を味わったことになる。(vol.5)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 2024年7月18日、東京地方検察庁は、殺人容疑で逮捕した夫婦の長女で会社役員の宝島真奈美容疑者を殺人罪で起訴した。ほかに男6人も同罪で追起訴した。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <恐怖、屈辱、敗北感>

 引っ越しで学校も変わることになった。新しい通学先は市立三重西小学校。俺は、二年生として通うその新しい学校に胸をワクワクさせていた。

 始業式の日に組替えがあり、教室に行き、自分の席を覚えた。その日は授業はなく、午前中に全生徒が運動場に集まり、学年や組ごとではなく、住所の番地ごとに並ばせられた。列の前の方には番地の書かれたプラカードを持った上級生たちがおり、そこに一年生から順番に列を作るのである。

 俺は四丁目の列に並んだ。そして、ちょうど真ん前にいた男子に

「ねえねえ、君何棟?」

と声をかけた。番地が同じということは、同じ団地なのだ。その男の子はすぐに振り向いて、

「三十五棟」

と答えた。

「うわー、一緒やねえ。ボク、五〇二なんや。君はー?」

「ボクは二〇六」

 その子は「谷村準」と名乗り、俺の名前も訊いてきた。俺は「野村哲也」と名乗り、すかさず「よろしくう!」と付け加えた。

 それから「出発!」と誰かが大きな声で叫び、アリの行列のように順番に校門を出て行った。集団下校である。集団下校は月に二、三回だった。

 始業式の翌日。俺は学校に着いて教室にはいると、ランドセルの中身を机の中に入れた。そして空になったランドセルを教室の後ろにある道具入れにしまい、自分の席につこうとした。その時である。五、六人の男子が俺のほうに近づいてきて、そのうちの一人がこう言った。

「お前、転校生やろ。新入りはアイサツせなあかんねんど。"あしたのジョー"見てないんか?」

 『あしたのジョー』は当時の人気漫画で、テレビでも再放送していたから俺も知っていた。だが、それと挨拶とが何の関係があるかわからずに黙っていると、その男子は仲間に、命令するような強い口調で「パラシュート部隊やっ!」と言った。そして「おい、コイツの手と足を持って寝かせろ!」と叫ぶと、命令された連中が俺を押し倒して手と足を持ち上げた。

「パラシュート部隊」がどんなものなのかは俺も知っていた。鑑別所でジョーが、不良連中にやられたリンチである。だから俺は手足を持ち上げられたまま必死にもがいた。

「やめろよー。やめろてー」

 指示した子が、俺の抵抗に舌打ちしながら叫んだ。

「おい、ゾーキン持って来い!」

 雑巾が俺の口の中に突っ込まれた。よく「牛乳が腐ったにおい」と言われるが、あのにおいだった。あまりのくささに吐きそうになって懸命にもがくと、さらに手足を強く固定された。叫ぼうとしたが声が出ず「ウーウー」と呻き声が漏れただけだった。

 そうこうしているうちに俺は道具入れの下まで引きずられて行った。首を振って雑巾を吐き出そうとするが、誰かが口のあたりを押さえていてだめだった。俺は、直後に起こるであろうことを想像して恐怖に包まれた。

 予想通り、指示を出していた子が道具入れに上り、さらに二、三人が続いた。そして、最初の奴が

「行くぞっ、パラシュート部隊!」

と叫んで、俺の腹の上に飛び降りてきた(体ごと落ちてくるのではない。ヒザ蹴りが上から落ちてくると考えればいいだろう)。激痛が襲う。吐き気がし、「ぐえっ」といううめきとともに涙が出てきた。口の中が酸っぱくなる。さらにもう一人が落下してきて意識が遠くなった。

 どこからか「先生が来たぞー」という声が聞こえてきた。瞬間、俺を抑えていた手が離れて、手足が自由になった。しかし、持ち上げられていた状態から急に放り出された形になり、俺は背中から床に叩きつけられた。口からは雑巾と一緒に吐瀉物が出てきて、床にぶちまけられた。

 リンチは終わったが、息苦しさで涙が止まらない。俺はよつんばいになって吐き続けた。

 その時、女の先生が近づいてきた。

「どうしたの? えーと……そうそう、野村君」

 まだ俺の名前が分からなかったからだろうが、状況からすれば間の抜けた反応だったと思う。俺は「うえっ、うえっ」と答えにならない声を出していた。

「急にゲロ吐いて泣き出したんやよ」

と誰かが言った。たぶん、さっき指示を出していた奴だったろう。

「そうなん? じゃあ、誰か保健室に連れてってあげて」

「じゃあ、ボクら連れてくわ」

 と、リンチの首謀者が立ち上がり、もう一人俺の腹の上に乗りかかった奴と一緒に俺のほうに近づいてきた。

俺は反射的に逃げようとしたが、まだ足がふらつく。ようやく先生が、

「大丈夫?」

と言いながらハンカチで俺の顔、とくに口のまわりを拭いてくれた。俺は先生に、何が起きたかを懸命に伝えようとしたが、なかなか声が出ない。すると、俺がしゃべり出すのを遮るように、指示を出した奴ともう一人が俺の手を取って連中の肩につかまらせた。

「じゃ、連れてくわー」

 連中はフラフラの俺を引きずるように教室を出た。

 保健室に向かう途中、首謀者が俺を脅してきた。

「お前、さっきのこと先生言うたら、またパラシュート部隊やで。わかったな」

「そうやど。絶対いうなよ」

と、もう一人も念を押す。俺は、さっきの痛さと苦しさと恐怖を考えただけでゾッとして、うなずくしかなかった。

 廊下の途中で、俺は横目でチラッと左右の奴らの名札を見た。右にいる首謀者は「きむらゆうじ」、左は「かわはらつよし」と書かれていた。

 保健室に着くと、「あらー、どうしたの」と、先生が声をかけてきた。

「野村君が急にゲロ吐いて倒れたで、先生(担任)が"保健室連れてって"って言うたで、連れてきた」

 と木村。川原も一緒にうなずく。

「まあ、そうなん。野村君、一人で立てる?」

 俺の足はまだふらついていた。

「あかんみたいねえ」

先生はそう言いながら立ち上がると、カーテンを開けてベッドを指した。

「二人とも悪いけど、野村君をそこまで連れてって座らせてあげて」

 ベッドに座らされた俺は、すぐ横になった。

「ありがとねえ。もう教室に戻ってええわよ」

 保健室の先生は、二人を部屋から出すと、かがみ込むようにして俺の手を取った。たぶん脈を診たのだろう。そして俺の顔を覗きこんで、「顔色悪いわねえ。どう、どっか痛いとこない?」と質問した。

 腹と背中が痛くてしようがなかった。だが、それよりも教室で起きたことを言いたかった。言おうとしたが、保健室にいる安心感からか、涙ばかり溢れてきて言葉にならない。

「ぎぎ、ぎむらぐんが……」

「で、で、でんごうせいがやでって……」

「お、おなが……」

「ば、ばばらじゅー……」

「ぎ、ぎだぐで……」

 口から出てきたのは、たぶんこんな意味不明の言葉だっただろう。先生は理解できず、困ったという顔をした。それでも「転校生」という部分だけはわかったようで、

「そう、野村君転校生なの。やで、キンチョーしたんやね。わかる? キンチョー」

 と、勝手に決めつけてしまった。

だが、言われたこちらは「キンチョー」の意味がわからない。なぜか「蚊取り線香の話なんかしてないのに」と、困惑した。それでも涙は止まらず、必死で訴えようとするが相変わらず言葉にならない。

 しばらくして少し落ち着き、「今度は言える」と思った。だが、保健室に来る途中で木村が言った「また、パラシュートやで」という言葉が甦って、結局、俺は何も言えなくなった。

 泣き止んだことで、俺が落ち着いてきたと感じたのだろう。先生は「ここに寝とき。少し寝たら、きっと大丈夫やね」と言うと、カーテンを閉めて向こうに行ってしまった。

一人残された俺は、悲しさと悔しさが入り混じった感情が込み上げてきて声を殺して泣いた。今にして思えばこのとき、俺は小学二年生にして恐怖と屈辱と言い様のない敗北感を味わったことになる。(vol.5)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その6 第一章/人間形成(学校も勉強も……) パラシュート部隊の恐怖が再び俺の体を支配する。俺はかすかに震えていた。家に着いた俺は、祖母の部屋に駆け込んだ。祖母になら木村たちのことを話せると思ったのだ。しかし、優しい笑顔で「お帰り」と言われると、急に涙が込み上げてきてその場に泣き崩れてしまった。結局、何も言えなかった。祖母も何も聞かず、俺の背中をさすってくれるだけだった。(vol.6)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 殺人罪で起訴された宝島真奈美容疑者は、殺害された宝島龍太郎さんの実の子ではなく、同じく殺害された宝島幸子さんは再婚であって、その連れ子であった。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <学校も勉強も……>

 少し泣いた後にチャイムが鳴った。しばらくして、担任が俺のメガネと上履きを持って保健室にきた。上履きには「のむらてつや」と書いてある。

 その時、俺ははじめてメガネを掛けてなかったことに気付いた。よほど動転していたのだろう。

 メガネを受けとってビックリした。フレームの右側のツルが折れてブラブラしており、レンズも傷だらけだった。

 俺のメガネは当時としては珍しいプラスチックレンズで、ガラスに比べて傷つきやすく、おまけに真ん中に傷が入りやすい遠視用の凸レンズだったのである(なお、その後もたびたびメガネを壊したので、とうとう母が「もうメガネは買わへんから」と激怒し、それからはメガネなしで通すことになったが、日常生活にさしたる不便はなかった)。

 レンズの傷を見ていると、改めて怒りが込み上げてきた。それで担任に木村たちにされたことを訴えようとすると、なんと先生の後ろに木村とその仲間までいるではないか。

 木村は俺に近寄って、
「大丈夫、野村君?」
と、白々しいことを言った。そしてさらに近づくと、
「お前、言っとらへんやろな。言ったらわかっとるな」
と、小声で脅しをかけてきた。

 メガネの怒りは瞬時に消え去り、パラシュート部隊の恐怖が再び俺の体を支配する。俺は反射的に頷いた。頷くしかなかった。

 奴は一度釘を刺しただけでは足りず、さらに念を押してきたことになる。執念深いガキだ。俺はかすかに震えていた。

 担任はそんなことにはまるで気付かず、
「大丈夫? 教室に戻れる?」
と訊いてきた。

 俺が教室で吐いていた時もそうだったが、この先生はかなり鈍感なようで、メガネや上履きのことなど訊きもしなかった。

 あとで知ることになるが、このとき彼女は新婚だったそうで、自分の幸せ気分で浮かれていて、生徒のことまで気が回らなかったのかもしれない。この先生は、一学期が終わると産休に入ることになる。

 担任の問いに俺は即座に首を振った。痛みは我慢できないほどではなかったが、とても教室に戻る気分にはなれなかったからである。

 担任は仕方なさそうに
「それじゃあ、よくなるまで寝とってええよ」
と言い、保健室の先生と二言三言かわして出て行った。

 木村たちも後に続く。一人になった俺はまた泣いた。

「野村君、野村君」という声にはっと目を開けると、目の前に保健室の先生がいた。どうやら、俺は泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。先生の手には俺のランドセルがあった。

「野村君、もう帰りの時間やよ」

 木村たちにインネンをつけられたのは始業前のことだったから、ずいぶん長く寝ていたことになる。だが、そんなことはもうどうでもよく、俺は家に帰れる喜びでベッドから飛び起きた。

「大丈夫、一人で帰れる?」
と先生に言われたが、俺は頷いてランドセルを受け取った。

 下駄箱のところに行くと、他の生徒はみんな帰ってしまったことがわかった。靴が全て上履きに変わっていたからである。

 廊下の時計に目をやると、すでに十二時を回っていた(新学年になってからの二、三日は半ドンである)。

 急に寂しさがこみ上げてきて、俺は走って家まで帰った。

 学校から家までの距離はだいたい二キロ弱、子供の走りだと十五分程度だ。家に着いた俺は、祖母の部屋に駆け込んだ。祖母になら木村たちのことを話せると思ったのだ。

 しかし、優しい笑顔で「お帰り」と言われると、急に涙が込み上げてきてその場に泣き崩れてしまった。結局、何も言えなかった。

 祖母も何も聞かず、俺の背中をさすってくれるだけだった。

 夕方になって母が仕事から帰ってきた。母はメガネを見て、「また、壊したの」と怒りだし、そのまま夜の仕事に出て行った。

 当時、俺はそそっかしかったのか、たびたびメガネを壊していた。そのために、いくつか予備を持っていたので、メガネの替わりで困ることはなかった。

 だが、壊れるたびに母に怒られるのは気持ちのいいものではない。しかも母は、壊れた理由など訊ねもしない。なにかにつけてそうだった。

 やや先のことになるが、窓ガラスに蛾がとまっていて、追い払おうとして窓を叩いたらガラスが割れてしまったことがあった。夜中に帰宅した母は窓ガラスがなくなっていることに気付き、俺を叩き起こした。

 そんな時、母はまず最初に「誰がやったのか」を知りたがった。決して「なぜガラスがないのか?」とは訊かなかった。母は、犯人が俺だとわかると、「ガラス代、いくらかかると思っとんの」と怒鳴った。間違っても「怪我はなかった?」とは言わないのである。

 確かに俺の不注意には違いないが、相手は十歳にも満たないガキなのである。あまりといえばあまりではないか。俺はそんな母に、木村たちのことを話す気にはなれなかった。

 その頃、姉とは時々ケンカする程度で会話らしい会話はなかった。だから結局、俺は学校で木村たちにされたことを誰にも打ち明けなかった。(vol.6)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その7 第一章/人間形成(祖母との別れ) 「ごめんね、哲っちゃん。ごめんね……」そう言って祖母は、俺に向かって手を合わせた。「おばあちゃん、行かんといてえー、行かんといてえー」俺は祖母にしがみついたが、祖母は「ごめんね」を繰り返すだけだった。大好きな祖母が行ってしまった。俺は祖母のいた部屋に飛び込み、畳に突っ伏して泣いた。俺は一人になった……そう思ったのだ。(vol.7)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 殺人罪で起訴された宝島真奈美容疑者は、殺害された宝島龍太郎さんと宝島幸子さんの両親との確執を深め、2024年1月には宝島龍太郎さんが代表を務める運営会社「サンエイ商事」の役員を辞任したが、那須焼損遺体事件後の5月中旬には同社の代表取締役に就いていた。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <祖母との別れ>

 学校でたびたび殴られ、家に帰って祖母に慰められ、そして遊びに行く。そんな日々が二ヶ月ほど続いた頃、とんでもないことが起きた。

 六月はじめの日曜日だったと思う。母の兄と弟、つまり伯父と叔父が遊びに来た。突然のことで、何か変だと感じた。彼らは静岡の清水市に住んでおり、うちに来るのはお盆や正月くらいだったのである。とはいっても、伯父は俺を我が子のように可愛がってくれていたので、すごく嬉しかったのも事実だった。

「介おじちゃん、どうしたん? 遊びに来たん?」

 伯父の名は健介である。俺の声を聞いた伯父は「おお、哲也。元気か?」と嬉しそうに言ったが、すぐに目を伏せた。俺は何かとてつもなく嫌な予感がした。

 俺の予感は大当たりだった。ほどなくして伯父たちが、祖母の部屋から荷物を運び出し始めたのである。

 当初、俺は何が何だかわからず、荷物が運ばれるのを黙って見ていた。やがて、ふと気付いたのである。祖母が静岡に行ってしまうのでは、と。

 俺は訊いた。

「おっちゃん、おばあちゃん連れてくんか? なんでや?」

 伯父たちは黙々と荷物を運んだ。俺はその後についてゆきながら、「なんでやー、なんでやー」と言い続けた。

 団地の下には、バンが止まっていて、荷台に荷物が積み込まれていく。半狂乱になった俺を、「哲也、うるさいっ! 黙っとり!」と母が怒鳴りつけた。

 俺は泣きながら階段を駆け上がって部屋に入り、祖母に言った。

「おばあちゃん、行かんよね。どこにも行かんよね……」

 その時の祖母の顔はいつものようなやさしい笑顔ではなく、こころなしかゆがんでいた。

「ごめんね、哲っちゃん。ごめんね……」

 そう言って祖母は、俺に向かって手を合わせた。

「おばあちゃん、行かんといてえー、行かんといてえー」

 俺は祖母にしがみついたが、祖母は「ごめんね」を繰り返すだけだった。

 やがて全ての荷物が車に積み終えられたが、俺は祖母にしがみついたままだった。たまりかねた母が、後ろから俺を抱きかかえて引き離す。祖母の目からは涙が溢れていたが、それでも笑顔を作り、部屋の外に出て行った。

「おばあちゃん、行くなー」

 俺は母を振りほどき、祖母を追った。母も俺を追い、手をつかんで抱きつけないようにした。そして俺の体を引き寄せて、

「おばあちゃんのためやで。ここ五階やで、外に出れへんかったでしょう」

 と言った。

 確かにそうだった。団地に引っ越してきてからというもの、足の悪い祖母は五階の部屋から一歩も外に出られなかったのである。だが、祖母と離れたくないという俺の感情は理屈ではない。俺は「おばあちゃん、行くなー」と叫び続けた。

母が諭すように「夏休みになったら、すぐ静岡に連れてってあげるから……」と言い、俺はその言葉に少し救いを感じたが、それでも祖母を追って階段を駆け下りた。

 祖母はすでに車に乗っていた。俺は、今度は伯父に叫んだ。

「連れてくなー!」

 伯父は、俺に悲しそうな顔を向けた。どうしようもないという顔だった。俺はまた叫んだ。

「ぼくも連れてけー!」

 これは伯父の心に突き刺さったようで、伯父はとっさに母に顔を向けた。俺も母を見る。だが、母は静かに首を振るだけだった。

 後に知ることになるが、このとき伯父は、「哲也を養子にもらいたい。できれば一緒に静岡に連れて行きたい」と申し出ていたそうだ。

 伯父には子供がいなかった。できない体質だったらしく、それが原因で離婚して、その後、連れ子のいる女性と再婚したという。

 伯父はうつむき加減のまま、車を発進させた。

 大好きな祖母が行ってしまった。俺はずっと車の行方を追っていたが、やがて見えなくなると階段を駆けあがって祖母のいた部屋に飛び込み、畳に突っ伏して泣いた。俺は一人になった……そう思ったのだ。(vol.7)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その8 第一章/人間形成(父帰る。が……) 「哲也か。大きくなったなあ。わかるか、お父さんや」おとうさん?、おとうさんって誰や?その日から、俺と姉の生活はぐちゃぐちゃになった。俺は父の顔をまともに見れず、嫌な予感がした。木村たちから殴られる直前の、冷や汗が流れるような嫌な予感が。(vol.8)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 2024年4月16日、栃木県那須町の河川敷で男女の遺体が燃えているのが見つかったことで事件は発覚した。

 遺体の身元は、東京・上野の繁華街で飲食チェーンを多店舗展開していた「サンエイ商事」経営者の宝島龍太郎さん(当時55歳)と幸子さん(当時56歳)。どちらも両手が結束バンドで縛れていて、顔に粘着テープが巻かれているという極めて残虐な犯行だった。

 そんな猟奇的な殺人事件は、発生から3週間が経ち急展開を見せる。警視庁と栃木県警の合同捜査本部は「サンエイ商事」幹部社員の関根誠端被告(32歳)を死体損壊の疑いで逮捕、6月14日には殺人の疑いで再逮捕した。

 だが、事件はこれだけでは終わらない。警視庁は6月27日、宝島夫妻の長女で、先に逮捕された関根被告の内縁の妻でもある宝島真奈美被告(31歳)を殺人容疑で逮捕に踏み切ったのだ。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <父帰る。が……>

 泣き続けた影響だろうか、扁桃腺が腫れて熱が出て、二、三日学校を休んだ。当時、俺はよく扁桃腺を腫らしていたが、このときは特にひどかった。

 回復すると学校に行ったが、木村たちに殴られるのは相変わらずだった。勉強もやる気が失せていたし、家に帰っても祖母はいなかった。

 この頃から、俺は鍵を持たされた。いわゆる鍵っ子である。姉は中学でテニス部に入っており、帰宅は遅かった。母は昼・夜の仕事を続けていて、俺は家の中で一人だった。それが嫌で、外でよく谷村と遊んだが、心から楽しいとは思えなかった。そんな日々が続き、数週間が過ぎた。

 六月の終わりか七月のはじめだったと思う。学校から家に帰ると、どういうわけか鍵が開いていた。一瞬、胸が高鳴った。「おばあちゃんが帰ってきたのかも知れない」と思ったからである。ワクワクしながらドアを開け、弾んだ声で「ただいまー」と言った。

 「お帰りー」。奥の方から返ってきた声は母のものだったが、俺はすぐに祖母が使っていた部屋のふすまを開けた。誰もいなかった。「もしかして母のほうにいるのでは」と思い台所に向かうと、そこには二人の人物が座っていた。一人は言うまでもなく母である。だが、もう一人は祖母ではなかった。知っているような知らないような、何とも言えない感じの男が座っていたのである。俺はなぜかその男を凝視することができず、母のほうに目を逸らした。母がなにか言おうとして口を開きかけたが、その前に男が言った。

「哲也か。大きくなったなあ。わかるか、お父さんや」

 男が俺に呼びかけていることはわかったが、俺は男に目を向けることができず、母に目をやった。母は黙って頷いた。

 おとうさん? おとうさんって誰や?

 確かに父親と暮らしていたことはあった。だが、父はほとんど家にいなかったし、いればいるですぐに暴力を振るった。他にもいろいろ問題があったらしく、それで一家は岐阜から三重に逃げてきていたのだ。しかし、このとき、俺はそんなことは覚えていなかった。というより、嫌な記憶を封じ込めていたのかもしれない。

 いずれにしても、事態を理解できなかった俺は、この男は「おとう」という名のオッサンだと自分で解釈して納得し、頷いた。

 そんな俺に満足したのか、「おとう」さんは「そうか、覚えとったか」と言った。

 声から察するに笑みを浮かべていたのだろうが、それはまともに顔を見られなかった俺の想像でしかない。ただ、「見られなかった」というより、「見てはいけない気がした」というのが正解だろう。「おとう」さんにはそんな雰囲気があった。俺は、蛇ににらまれた蛙のようにその場に立ちつくしていた。

 その日から、俺と姉の生活はぐちゃぐちゃになった。姉が帰ってくるなり、「おとう」さんが命令した。

「中学生の分際で、一人部屋はまだ早い。哲也と一緒の部屋で十分や」

 当然、姉は拒否した。

「そんなん嫌や」

 バシッ!

 いきなりだった。

「口答えするな!」と、「おとう」さんは姉に平手打ちを食わせたのである。そして姉を睨みつけ、「なんやその目は?」と、もう一度叩いた。

 姉は昔から母に叩かれて慣れているせいか、その程度では泣かない。見ていた俺のほうが泣き出すと、「男がそんなことで泣くな!」と、「おとう」さんから怒鳴りつけられた。俺は、恐怖でその場から逃げ出した。

 祖母が使っていた部屋で泣いていると、母と「おとう」さんの言い合いが聞こえてきた。

しばらくして姉が入ってきた。

「お姉ちゃん、"おとう"さんって誰?」

 泣くのを無理にやめようとするとしゃっくりが出てくるので、うまく言えたかどうかわからない。だが、姉は理解してくれたようで、俺を落ち着かせてからこう言った。

「"おとう"さんじゃなくて、おとうさん。アンタの父親やんか!」

 昼間、その男を見た時、知っているような知らないような感覚にとらわれたのは、恐らく、その男のことが俺の記憶の隅に封じ込められていたからなのだろう。姉の言葉ではっきりとわかって、思い出したらまた泣けてきた。

 俺が落ち着くのを見計らったように、ふすまが開いて父が入ってきた。後ろには母がいた。

「お前らの部屋はここに決まったで。ただ、机二つ置いて蒲団は敷けんで、明日二段ベッド買いに行く」

 父は有無を言わさぬ口調で言った。それでも、この日だけは姉は一人で自分の部屋で寝て、父と母と俺の三人は同じ部屋で寝た。

 当時、俺はおねしょの癖がなかなか抜けなかった。翌朝、目覚めた時も漏らしていた。

「お母さん、ちびった」

すると、となりで寝ていた父が半身を起こして、

「何ィ、哲也、おねしょするんか!」

 と恐ろしい口調で言い、母を睨みつけた。

「お前が甘やかすで、いつまでたってもするんやろ! ちゃんとしろ、しつけを!」

 それから、父は立ち上がって玄関まで行くと、俺を呼んだ。俺は返事をしなかった、というよりできなかったのだが、言われるままに玄関に向かった。すると父も俺のほうに寄ってきて、台所で向かい合った。

 俺は父の顔をまともに見れず、下を向こうとした時、父の手に靴べらが握られていることに気付いた。嫌な予感がした。木村たちから殴られる直前の、冷や汗が流れるような嫌な予感が。

 父はテーブルを指差し、

「そこに両手をついて、尻をこっちに向けろ」

 と言った。やはり予感は的中した。俺は言われるままにテーブルに両手をついて、目をつぶった。

 バシッ!

 父が靴べらで俺の尻を叩いた。音は大きかったものの、それほど痛みは感じなかった。二発目、そして三発目を受けた時、頭のてっぺんまで届くような激痛が走った。俺は大声を上げて泣き出した。

「男のくせに、これくらいで泣くな! 痛かったら、明日からおねしょはするなっ!」

 父は泣きわめく俺を無視して、何度も何度も靴べらで俺の尻を叩いた。あまりの痛さに顔を横に背けた時、視界に母が入ってきた。母は黙って見ているだけだった。

「止めろよ、クソババァ……」

 俺は心の中でそう思った。

 このときの感情は驚くほどはっきり憶えている。俺は、父ではなく母を怨んだのだ。母は俺と視線が合っても、相変わらず黙って見ているだけだった。(vol.8)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その9 第一章/人間形成(変わりゆく日常) 思えばこの頃に、俺はウソや演技、逃げるということを覚えたような気がする。覚えたというより、そうでもしなければ生きてゆくことができなかったのである。クソババァに成り下がった母と恐怖の対象でしかない父。(vol.9)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 事件の黒幕とされる関根誠端被告(32歳)が逮捕されたことで、当然のことながら宝島真奈美被告(31歳)は捜査線上に浮上していたが、防犯カメラの映像などから現場に立ち会っていないと見られていた。

 そこで彼女のスマホを慎重に解析したところ、事件発生前に関根誠端被告が宝島真奈美被告に対して「あいつら消してやる。ここで歩けなくさせてやる」とメッセージを送っていたことが判明し、事件に関与していたとみて逮捕に踏み切った。

 2024年7月18日、東京地方検察庁は、関根誠端被告や宝島真奈美被告を含む総勢7名を殺人罪で起訴した。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <変わりゆく日常>

 次の日、俺は尻をヒリヒリさせながら学校へ行った。教室の椅子に座ろうとしたが無理だった。俺は、木村たちに殴られた時に思いついた策を使うことにした。

 策とはこうである。指を口の中に無理やり突っ込み、胃から嘔吐物をせり上げる。それを口にためたまま保健室に向かい、近づいてきたら吐き出す。つまり、「気持ち悪くなって保健室に行こうとしたが、我慢できずに途中で吐いてしまった」という筋書きだ。毎度のこととはいえ、保健室の先生も実際に嘔吐物を見れば放って置くことはできず、「ベッドで休んでなさい」と言ってくれる。悪い頭を使ってなんとかひねり出した策だった。

 結局、その日は一日中保健室にいた。今なら毎日のように嘔吐する子がいたら問題になりそうなものだが、当時は「体の弱い子なのね」くらいで済んだのである。もっとも、体が弱いのはある程度事実だったし、よく熱を出して早退していたのだ。

 終業のチャイムが鳴ると、担任がいつものように保健室までランドセルを持ってきてくれた。俺は「先生、さようなら」と、わざと元気がなさそうに挨拶して、だらりと頭を下げてとぼとぼと玄関に向かった。校門を出ると、その日一日のうっぷんを晴らすように走った。

 思えばこの頃に、俺はウソや演技、逃げるということを覚えたような気がする。覚えたというより、自然に身につけたと言ったほうがいいかもしれない。大袈裟かもしれないが、そうでもしなければ生きてゆくことができなかったのである。

 祖母がいた頃は近所のスーパーあたりで財布を拾っても、必ず店に届けたものだった。しかし、この頃になると放って置くようになり、一年後には迷うことなくネコババするようになっていた。年とともに子供らしさが失われるのはある意味で当然かもしれないが、俺の場合は人より早かったような気がする。

 家に着くと鍵が開いていた。入ってすぐの部屋、すなわち祖母が使っていた部屋を見る。帰宅した時、必ずこの部屋をのぞく習慣が俺にはあった。だが、この日はふすまが開いていて、中に荷物のようなものが置かれていた。俺は「もしや」と思い、胸をドキドキさせながら台所に向かった。祖母に対する気持ちだけは、まだかつてのままだったのだ。

 だが、そこにいたのは父だった。

「哲也、帰ってきたら"ただいま"ぐらい言わんかっ!」

 いきなり怒鳴られた。俺はビクッとして、小声で「ただいまー」と言った。

「おかえりぃ、待っとったぞー。ベッド買ってきたで、お前も手伝え」

 たぶん、父の声は弾んでいたのだろう。だが、祖母ではなかったことの落胆と父に対する恐怖から、俺には怒鳴ったようにしか聞こえなかった。

 こういう時の父は実に手際がよかった。俺と母に対する指示は的確だったし、ベッドができあがってからも、俺と姉の勉強机の配置もテキパキとこなした。こちらに恐怖感さえなければ、「頼もしい父」と感じられたかもしれない。

 しかし、やはり父は怖かった。学校から帰ってきた姉がちょっと文句をつけると、父は有無を言わさずに張り倒した。その日から、俺と姉は一緒の部屋になった。

 その夜、ちょっとしたトラブルがあった。二段ベッドのどこで寝るかで、俺と姉との間で言い合いになったのである。二人とも下段を希望して譲らなかったのであるが、俺の一言で決着がついた。

「でも、ボクおねしょするよ」

 上から尿が落ちてきては誰だってたまらない。さすがの姉も、俺が下段を取ることをしぶしぶ了承した。たまにはおねしょも役に立った。

 翌朝。気がついたら、案の定おもらししていた。「父に叩かれる」という思いに恐怖した俺は、普段より早く起きて対策を練った。まず、父と母を起こさないように忍び足でベランダに行き、パンツとパジャマを洗濯機に放りこむ。そして、着替えてから敷布団をひっくり返しておく――。パンツとパジャマはうまくいったものの、敷布団はだめだった。裏までおしっこが浸透していて、ひっくり返しても同じことだった。

 どうしようかと考えているうちに、母が起き出した。俺のそばにきたので「助けてくれるのでは?」と期待をかけたが、母の行動は正反対のものだった。

「なに、アンタまたおねしょしたの」

 母は呆れ顔で言って、父に言いつけに行ったのである。あとは昨日と一緒だった。違っていたのは、

「おまえも叩かなあかん」

 と、父が母にも俺の尻を叩かせたことだ。

 俺は、父の折檻には痛さで泣き、恐怖で泣いた。母の時は痛みはそれ程でもなかったが、悔しさで泣いた。俺は心の中で叫んだ。「なんや、このクソババァ! 今までおねしょじゃ怒らへんかったやないか!」 

 それにしても、あの楽しかった小学一年生の頃の俺はどこに行ってしまったのだろう?学校ではことあるごとに木村たちに殴られ、頭からゴミ箱をかぶせられる。そのたびに保健室に行ってゲロを吐き、時には体温計をこすって熱があるように見せかける始末。木村たちに殴られない日は、ぼーっとしながら授業を受けた。家に帰れば、クソババァに成り下がった母と恐怖の対象でしかない父。

 土曜は学校は半ドンだから家に帰っても誰もいない。台所に置いてある五百円で昼メシを食べに行き、午後は同じ団地の谷村たちと遊んだ。五百円は漫画に化けることもあり、そういう時は自分で昼メシをつくった。祖母からは焼きメシと卵焼き、母からは焼きソバと焼きうどん、インスタントラーメンなどの作り方を教わっていたからなんとかなった。日曜は朝叩かれてから外に遊びに行った。わずかな救いは、門限(六時半)さえ守れば父がうるさいことを言わなかったことだろう。(vol.9)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その10 第一章/人間形成(父の恐怖) 父はカンシャク玉のような男だった。俺にとって、父という存在は恐怖そのもので、木村たちのいじめなどとは別次元のものだった。ちなみに、姉と俺は父のことを悪魔、母のことは鬼と呼んでいた。悪魔と鬼は、ほとんど毎日と言っていいくらいケンカをしていた。(vol.10)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 事件から5カ月経った9月中旬、サンエイ商事の飲食店がひしめき合う上野の繁華街の「宝島ロード」は事件前とは大きく様変わりしていた。

 最盛期には17店舗もの系列店があったというが、現在も営業しているのはわずか4店舗だけで、かつて複数の系列店が乱立していた「宝島ロード」は壊滅状態にある。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <父の恐怖>

 父はカンシャク玉のような男だった。

 たとえば夕食時、「茶碗のなかに御飯粒が残ってる」「箸の持ち方が悪い」と言っては姉を平手打ちした。それを間近で見せつけられて俺は恐怖に震えたが、泣くと怒られるので泣かないように歯を食いしばった。そして、箸の持ち方に気を付けながら、御飯粒を残さないように食べた。食べたというより、無理やり口の中に押し込んだ。

 こんなのは序の口で、とにかく父はよく怒った。「布団に入って寝るまで、体を横にするな」「テレビはちゃんと座って見ろ」「トイレットペーパーは三十センチ以上使うな」等々。言っている内容だけならただの小言というかお説教に過ぎないが、その言い方が恐ろしいのである。

 ある時、俺が小便を済ませてトイレから出た直後、父が入っていった。恐らく大便だったのだろう。しばらくして、トイレから飛び出してきた父がいきなり俺に平手打ちした。そして叩いたあと、

「哲也、今トイレに入ったやろ。なんでトイレットペーパー替えとかんかった!」

 と怒鳴った。父は説教する前に必ず手が出るのである。俺にしてみれば、小便をしただけなので紙がなくなっていることなどに気づくはずもなかった。

 また、おねしょがなかなか治らず、「靴べらではアカン」ということで尻を叩く道具が布団叩きに変わった。当時の俺は父に怒られると頭が真っ白になり、思考力がなくなってただ黙ってうつむき、そして泣く。それだけだった。

 怒られていない時でも常に恐怖感があったからだろうか、俺のほうから父に声を掛けた記憶はひとつもない。父がなにか言ってきた時だけこちらは答える。それもできるだけ短く。「はい」「いいえ」「ボクじゃないよ」……それを言うだけでも相当気を使った。

 俺にとって、父という存在は恐怖そのもので、木村たちのいじめなどとは別次元のものだった。
例えば、木村たちに殴られても、心の中で「早く終わらんかなあ」と思える余裕があったし、ゴミ箱をかぶせられても「またか」で済ますことができた。連中には、顔色を見て話し掛けることもできた。それだけいじめに慣れてきたということなのだろうが、父の場合は、慣れるということがなかった。

 そんなある日、俺はなるだけ父を避ける方法を思いついた。父が不在かどうかは車の有無でわかるということに気付いたのである。車がなければ普通に家に入り、もし車があれば外で時間をつぶして姉が帰ってくるのを待って一緒に入る・・・・・。この策のおかげで、俺は精神的にずいぶん楽になった。

 俺にとって、父と二人で家にいることは水の中にいて息ができない状態でいるようなものだった。となると、姉が酸素ボンベ代わりである。俺と姉と一緒にいる時、先に怒られるのはいつも姉なのだ。こうして自分の保身のために俺は姉をダシに使うようになり、これはかなり長く続いた。

 父が来てからというもの、家の中での俺と姉の仲が回復してきた。というより、一時的に停戦協定を結んで父に備えた、と言ったほうがいいかもしれない。例えば、父が二人の部屋に来そうな気配がすると、先に気づいた方が教える。父が帰ってきた時も、先に気づいた方が教える、という具合だ。父と母の違いは足音でわかった。家の出入りも階段の上り下りの音も、我々の部屋は玄関のすぐ横にあったのでよく聞こえたのである。ちなみに、姉と俺は父のことを悪魔、母のことは鬼と呼んでいた。

 悪魔と鬼はよく夫婦ゲンカをした。口ゲンカなどではない。悪魔は当然のように鬼を殴るし、鬼は鬼でそこらじゅうにある物を投げつけた。さすがに漫画に出てくるように、家から外に物が飛んでいくようなことはなかったが、ケンカのたびに部屋は泥棒が入ったよりひどい状態になった。悪魔と鬼は、ほとんど毎日と言っていいくらいケンカをしていた。(vol.10)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その11 第一章/人間形成(夏休みと競輪) 俺は夏休みの間じゅう、父と姉と三人で競輪場に通い詰めていた。父は、自分が競輪をやるために、俺と姉をお伴に連れて行ったのではない。要するに、ノミ屋がレースの結果を知る直前に、家族リレーでイカサマをやるわけだ。結果を知ってから買うのだから百発百中、儲け放題で、競輪に行った数日後には父と母は目を血走らせながら札束を勘定していた。(vol.11)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 東京・上野の繁華街で飲食チェーンを多店舗展開していた「サンエイ商事」経営者の宝島夫妻が殺害された事件は、夫妻の長女の宝島真奈美被告(31歳)とその内縁の夫の関根誠端被告(32歳)を含む7人が逮捕、起訴されて幕を閉じた。

 長年にわたり宝島夫妻が手がける飲食店で働いている男性は、「真奈美さんが逮捕されて、今は妹さんが代表に就任していますが、現場に立つわけではなくて上から指示を送る感じですね。だから今も現場を回しているのは各店舗の店長とかマネージャーで、全員というわけではないけど、誠端さんを慕う『誠端ファミリー』が店を支えている状況です」と会社の現状について語っている。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <夏休みと競輪>

 待望の夏休みがやってきた。祖母と別れる時、「夏休みになったら静岡に連れてってあげるから」という母との約束に俺は期待をかけていたのである。

 しかし、現実はそれどころではなかった。一度母に約束のことを訊いたら、「そうやねえ、お父さんに聞いてみぃ」と言われたのだ。父に話しかけることさえできない俺に、そんなことができるわけがない。姉に頼んでみても、「イヤ」の一言だった。

 しかし、仮に父に相談することができていたとしても、俺の静岡行きは無理だっただろう。なにせ、俺は夏休みの間じゅう、父と姉と三人で競輪場に通い詰めていたのだから。

 父は、自分が競輪をやるために、俺と姉をお伴に連れて行ったのではない。

 当時、競輪は今みたいにテレビでもラジオでも放送されていなかった。

 もちろん、インターネットなどというものもない。したがって、レースの結果、つまり選手たちの着順は現場(競輪場)にいない限りリアルタイムで知ることができなかったのである。

 ノミ屋(非合法に客に車券を売るヤミ賭博屋)の場合、現場に人を送り、公衆電話を使って着順を事務所に連絡させていた。しかも、レース直後というわけではなく、着順が確定してから電話が入るので、事務所にいるノミ屋が結果を知るのは少し後のことだった。

 そして現場のものから着順の情報が入る直前まで、当時のノミ屋は客からの注文を受けていた。

 父はそこに目をつけたのだ。

 まず、母を家に待機させて、残りの家族で競輪場に行く。姉は公衆電話を確保し、父がレースを見る。レースが終わると、俺に着順を知らせる。で、俺はダッシュで姉のもとまで走って、姉が自宅の母に伝える(なお、レース時間にあわせて、あらかじめ電話はつなげておいた)。そして最終的に、母がノミ屋に電話をして車券を買う――。

 要するに、ノミ屋がレースの結果を知る直前に、家族リレーでイカサマをやるわけだ。結果を知ってから買うのだから百発百中、儲け放題で、競輪に行った数日後には父と母は目を血走らせながら札束を勘定していた。もっとも、こういう図式を俺が理解したのはずいぶん後になってのことだが。

 そんなことを夏休みじゅうやっていたので静岡に行けるわけがなかった。

 夏休みのあいだは時間の経過が早く感じられた。ふだん父と一緒にいるのは恐くて苦しかったが、競輪に行っている時はそうでもなかった。レースを見るのは楽しかったし、札束を数えている日の父はすこぶる上機嫌で、怒鳴られることもなかった。おねしょをしても怒られなかったし、一緒に風呂に入って頭の洗い方を教えてくれたりもした。俺は風呂好きだったが、息の止め方がわからず、うまく頭を洗うことができなかったのである。

 夏休みが終わろうとする頃だった。遊びから家に戻ってみると、玄関から入って突き当たりの部屋の壁の真ん中に本棚が置かれていた。並べてあるものを見ると百科事典だった。全部で十六巻。父がやってきて、

「どうや、すごいやろう」

 と自慢げに言った。いつものような恐さは感じなかった。俺は自然に頷いた。嬉しかったのだ。それからしばらく、俺はこの百科事典の世話になることになる。(vol.11)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その12 第一章/人間形成(俺は見捨てられた……) 新学期になって担任が変わった。なんと一年生の時に通っていた三重小学校の担任(女性)だったのである。俺はこの先生には木村たちにいじめられていることを伝えたくてしようがなかった。だが、頭の中に「チクったらパラシュート」という言葉がこびりついて、結局は言えなかった。(vol.12)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 「サンエイ商事」経営者の宝島夫妻が殺害された事件以降、アルバイトも含めたサンエイ商事の従業員数は140人から40人にまで減少。さらにテナントに入っていたビルのオーナーに追い出された影響もあり、17店舗から4店舗にまで縮小したが、そんな苦戦を強いられるなかでも、

 「誠端さんにめちゃくちゃお世話になったからです。もちろん仕事なので売り上げも大事だけど、誠端さんはそれ以上に愛情があるというか、人として尊敬できた。悩みがあったらすぐに気づいてくれるし、『ちょっとメシ行こうや』という感じで愚痴も聞いてくれる。それくらい人を思ってくれる人なので、自分は会社のためではなく誠端さんのために働いてたし、誠端さんの下で骨を埋めようと思ってます。たしかにやったことは悪いけど、自分はいまだに信じられないし、今でも戻ってきてくんねえかな〜って。将来もし誠端さんがどこかで飲食店をやるなら、そのときは自分も入りたいです」と長年にわたり宝島夫妻が手がける飲食店で働いている男性会社の現状について語っている。

 そんな「兄貴」のような存在だった関根誠端被告は、殺害された宝島龍太郎さん(当時55歳)と幸子さん(当時56歳)と経営を巡ってたびたび対立していたと報じられている。

 だが、この男性は「龍太郎さんはさておき、幸子さんは人間性が欠けていた」と当時を振り返る。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <俺は見捨てられた……>

 短く思えた夏休みが終わり、二学期になった。また学校に行かなければならない・・・・・。

 俺は憂鬱な気分で登校した。

 宿題には全然手をつけておらず、そのことも沈んだ気分に拍車を掛けていた。

 新学期になって担任が変わった。前の先生が産休を取ったので、新しい担任が来たのだが、俺はその先生を見てビックリした。

 なんと一年生の時に通っていた三重小学校の担任(女性)だったのである。先生の方も俺がいたので驚いたようだった。

 この先生が担任だった一年生の頃の俺は成績も良く、ほとんどのテストは満点だった。授業もよく聞き、夏休みの宿題も滞りなくこなしていた。

 良い子というか、優等生だった俺を知っているわけだ。

 それだけに夏休みの宿題をやっていないことに先生はガックリきた様子だった。それは子供の目でもわかった。

 それでも俺には期待していたようで、授業中は手を上げなくてもよく当てられた。

 国語の時間なら教科書を朗読するだけだからよかったが、困ったのは算数である。

「はい、野村君、これ計算できるよね。前に出てやってみて」

 勉強は嫌いになっていたが、算数自体は好きだったので答えはわかっていた。

 しかし、前の担任から怒られて「俺の計算の仕方はみんなと違うんじゃないか」という気おくれが俺の頭に刻み込まれていた。

 「普通じゃない」と思われるのがたまらなく嫌だった。

 結局、口から出たのは「わかりません」という言葉で、先生はまたガッカリしたようだった。

 実を言うと、俺はこの先生には木村たちにいじめられていることを伝えたくてしようがなかった。

 だが、頭の中に「チクったらパラシュート」という言葉がこびりついて、結局は言えなかった。

 もしこの時点で、「どうして急にこんなふうになったのか」と先生が訊いてくれたなら、俺は学校でのこと、家庭でのことを洗いざらい打ち明けていただろう。

 しかし先生は、俺の「わかりません」が数日続くと諦めてしまったようだった。

 俺は子供心にも見捨てられたことがわかった。

 いじめ(当時はこういう言葉は使われていなかったが)とは周囲に気づかれないようにやるものであって、表に出ることはまずない。

 俺のほうも、殴られても以前のようには泣かなくなっていた。

 短い休み時間を我慢すればいいわけで、かなり慣れていたのだ。

 俺がいじめられていることはクラスの生徒もほとんど気づかなかったのだから、先生は当然わからなかったのだ。(vol.12)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その13 第一章/人間形成(ヤク中の父と大酒飲みの母) 父は覚醒剤使用で逮捕された。父は薬物中毒、つまり覚醒剤使用の常習者だったそうで、俺が幼児期に見た包丁を持って走りまわっていた姿も、今回のようにベランダから俺を放り投げようとしたことも、恐らく幻覚かなにかに襲われてのことだったのだろう。母は夜はキャバレーで働いていたから、酒のせいで機嫌が悪くはなったが、決して酒に溺れていたわけではなかった。昼の仕事をきちんとこなし、夜も勤めていた母は、女手ひとつで二人の子供を養っていたのだ。今にして思えば尊敬に値する。だが、あの頃の俺に感謝の気持ちなど微塵もなかった。ただただ母が憎かった。(vol.13)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 「宝島幸子さんは自分の機嫌にすべて左右されるから指示もめちゃくちゃでした。昨日言ってたことと今日言ってることが全然違うし、間違ってたらすぐにキレ散らかす。経営については利益の出てる店と出てない店があったけど、そういうのは宝島幸子さんにとって関係ないんですよ。だから自分はなにを言われようが当時から気にせず反抗してましたが、それで利益を上げようが、結局は全体の売り上げが悪いと機嫌が悪くなってまた当たりがキツくなる。正直なことを言うと、宝島幸子さんを人間だと思って話してなかったです」と長年にわたり宝島夫妻が手がける飲食店で働いている男性会社は当時を振り返っている。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <ヤク中の父と大酒飲みの母>

 二学期になって、姉が夜、学習塾に通うことになった。これは俺にとってショックだった。なぜなら、姉が塾から帰ってくるまでの間、俺は一人で悪魔と鬼の両方を相手にしなければならないからである。

 それでも、父と母が一緒にいる時はまだよかった。その間は勉強している振りをして部屋にこもり、百科事典をすみからすみまで見ていればよかったのだから。ふたりとも俺が勉強していれば何も言わなかった。母などは

 「哲っちゃんエラいねえ、お勉強して」

 と優しい声で誉めてくれたほどだ。

 だが、母が塾に姉を迎えに行った時などは相当悲惨なことになった。

 「お姉ちゃんを迎えに行くから、お父さんは哲也の勉強見てやって」

 と決まって母は言った。父は

 「おう、そうか。よし哲也、わからんとこがあったら何でも訊けよ」

 と声を弾ませた。まったく余計なお世話だった。結果、台所のテーブルで父と向き合って、やるつもりもない宿題をやらざるをえない状況になるわけで、俺は「このクソババァ、言わんでいいこと言いやがって」と、腹の中で毒づくことしかできなかった。

 そんなふうに宿題をやらされていたある日、父が唐突に怒鳴り始めた。で、俺の体をつかんで投げ飛ばし、さらにベランダから放り投げようとしたのである。俺は訳がわからず、ビックリして泣き出した。ウチの部屋は五階で、落ちたらかなりの確率で死んでしまう。俺は、このときばかりは必死で抵抗した。ベランダの手すりにしがみつき、

 「うわー、落ちるー。助けてー、助けてー」

 と絶叫し続けた。

 その声で正気に返ったのだろうか、父はハッとした様子で俺を引き上げて家の中に戻した。俺は怒られるようなことはなにもしていなかったので、さっぱり訳がわからなかった。

 二、三日後、今度は夜中に父が大きな声を出しながら帰ってきたので、俺と姉は飛び起きた。そっとふすまを開けて隣の部屋を見ると、そこにはテレビのブラウン管に映る砂嵐を眺めながら、しまりのない笑いを浮かべている父がいた。俺は、父は気でも狂ったのだろうかと思った。

 それから二、三日後、学校から帰ると母が唐突に、

 「もうお父さんは家に帰ってこないから」

 と言い出した。俺は意味がわからずポカンとしていたが、もう父と顔を合わせずにすむことがわかると、心の中で「バンザーイ!」と狂喜した。

 このときは知らなかったが、父は覚醒剤使用で逮捕されたのだった。父は薬物中毒、つまり覚醒剤使用の常習者だったそうで、俺が幼児期に見た包丁を持って走りまわっていた姿も、今回のようにベランダから俺を放り投げようとしたことも、恐らく幻覚かなにかに襲われてのことだったのだろう。

 理由はなんであれ、父親がいきなりいなくなるなんてとんでもない話だが、当時の俺からすれば大歓迎だった。なにせ、最大の悩みが消えたのだから。

 しかし、そうも言ってはいられなかった。いくら慣れたとはいえ、学校で殴られるのは嫌だったし、ゴミ箱をかぶせられるのも我慢できなかった。俺にはSMの趣味はなかった。

 そこで考えたのは、学校に行かなければ全てが解決するということだった。

 悪魔がいなくなったから、家にいても問題はない。母のことは、悪魔が去れば母の中の鬼も去ると期待したのだ。

 しかし、そうは問屋が下ろさなかった。

 母は酒を飲んだ。祖母も飲んだが、ビールを小瓶で一、二本程度である。父は飲めなかった。ちなみに、俺は飲めないことはないが、あえて飲まない。姉は飲めないくせに無理して飲む。俺と姉に関しては、大人になってからの話だが。

 母は女性としてはかなり飲んだほうだろう。静岡の伯父と叔父も大酒飲みで、俺の記憶では、二人でビール一ケースは楽に空けたはずだ。母はそんな伯父たちに付き合って朝まで飲んでいたくらいだから、かなり強かったに違いない。

 母の酒量は、父がいなくなってからさらに増えた。おまけに、夜はキャバレーで働いていたから、もっと飲んでいたことになる。いきおい、朝が起きられない。だが、保険の外交のためには無理してでも布団から出なければならない。いつも二日酔いがひどかったのだろう、朝の機嫌はすこぶる悪くなった。

 姉が通う三重平中学は給食がなく、母が弁当を作っていたが、そのうち酒のせいで作らなくなってしまった。俺の社会科見学や遠足の時はなんとか作っていたが、それは俺が母を起こしていたからである。

 母は機嫌が悪い時に起こすと、俺を蹴り飛ばすようになった。俺は泣いた。それは痛かったからではなく、悔しかったからだ。怨んで泣いたのである。

 母は酒のせいで機嫌が悪くはなったが、決して酒に溺れていたわけではなかった。昼の仕事をきちんとこなし、夜も勤めていた母は、女手ひとつで二人の子供を養っていたのだ。今にして思えば尊敬に値する。だが、あの頃の俺に感謝の気持ちなど微塵もなかった。ただただ母が憎かった。(vol.13)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その14 第一章/人間形成(登校拒否と再会) 母が「おばあちゃんに会いに行くよ」と言い出した。俺の心はおどった。「おばあちゃん―――」俺はただただ嬉しくて、祖母に抱きついただけだった。清水市での日々は、久々に祖母と一緒にいられたという喜びからか、細かなことは覚えていない。(vol.14)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 「激昂するわけではなく『〇〇の方がいいんじゃないですか?』みたいな感じで説得するように話してました。それとメディアに以前、誠端さんが近隣の店舗と揉めている映像が出回ってましたけど、あれも本人はめちゃ嫌がってたんですよ。
 幸子さんに無理やり用心棒として連れて行かれて『うわー、面倒くせえ』と愚痴ってましたし。誠端さんは本当はそんなトラブルを起こすような人じゃなかったし、タトゥーとか入っててガラは悪いけど、自分にとっては良い人だった」
 と長年にわたり宝島夫妻が手がける飲食店で働いている男性によると、関根誠端被告はそんな宝島幸子社長夫人に対しても、あくまで下手に意見を述べていたという。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <登校拒否と再会>

 学校に行かなければいいと考えた俺は、朝、母を起こさずにランドセルを背負って家を出ることにした。そして、母の車が見えるところに隠れていて出勤したのを見届けて家に戻った。

 こうして家にいる時間が異常に長くなった。やることといえば、まずはテレビである。よく見たのはNHKの教育テレビで、中でも「はたらくおじさん」が好きだった。自分の父親は嫌いだったが、心のどこかで「頼れる父」を求めていたのかもしれない。それから時代劇もよく見た。不思議なのは国会中継だった。誰かがわけのわからないことをしゃべっているだけなのだが、それを聴いているぶんにはなぜか飽きないのである。たぶん、BGM的感覚で捉えていたのだろう。

 もうひとつは百科事典である。十六巻あった事典を、最初から最後まで何度も何度も見た。そのおかげでか「なんで俺はこんなことまで知っとるんや」ということが今でもある。

 学校が終わる時間になると、同じクラスの女の子が給食に出るコッペパンと保護者への連絡事項が書かれたプリントなどを持ってきてくれた。それを受け取るとすぐに外に出て、同じ団地の谷村たちと遊ぶ。暗くなったら家に戻り、テレビやマンガを見たり、百科事典を読む。そして、眠くなってきたら寝る。そんな平穏な日々は二、三週間続いた。

 しかし、静寂はいつか破られる。全然学校に来ない俺を、先生たちが不審に思ったようだ。母に連絡が行き、当然怒られた、と思うかもしれないが、単にイヤミを言われただけである。その時の言いぐさは「アンタ、給食代いくらかかると思っとんの」であった。普通なら、「子供の身になにか起きたのではないか」と考えるのがまともな母親ではないか。「心配」という感覚が欠如していたのだろうか? もしこのとき、母が「アンタ、なんで学校に行かんかったの?」と訊いてくれていたら、全てを洗いざらいブチまけていたような気がする。

 いずれにしても、また行きたくもない学校に行かされるハメになった。それでも、なるべくバレないように休んだ。やり方は前の時と同じで、それを二日おきにしたり三日おきにしたりしただけである。また、わざと遅刻したり、給食だけ食べに行ったりと、とにかくなるだけ学校にいる時間を減らそうと努力した。

 その頃、お互いに鼻の調子が悪くなった谷村と、バスに乗って耳鼻科に通うようになった。で、バスに乗ればどこにでも行けるということを知り、そのうちに一人でバスに乗れるようになった。

 そうこうしているうちに冬休みが来た。ちょうど休みが取れることになっていた母が

「おばあちゃんに会いに行くよ」

 と言い出した。恐らく、伯父あたりから「一度こっちに来い」とでも言われたのだろう。俺の心はおどった。

 静岡行きはすぐに実行され、俺と姉は母の車で清水市まで行くことになった。

 母はどこに行くにも車を使ったが、無事故・無違反の賞状が家にあったくらいだから、運転はかなりうまかったのだと思う。

 俺は、そんな母と車に乗るのが嫌いではなかった。なぜなら、普段にはない気遣いを見せてくれるからだ。例えば信号で停止する時、助手席にいる子供(姉でも俺でも)のお腹のあたりに手を出した。これは止まる時に前のめりにならないようにという配慮からだろう。もっとも、「シートベルトをすれば済むじゃないか」と今にしては思わないでもないが。

 高速に乗って清水に向かう途中、浜名湖のサービスエリアで休憩した。眼下に広がる湖を三人で見ていた時、母が、

「ここでうなぎの養殖しとるんやよ」

 と言ったので、俺は

「違うよ。この湖は海とつながっとるで、うなぎは住めへんで。この近くでうなぎをつくっとるんよ」

 と反論した。母は

「アンタ、なんでそんなこと知っとんの?」

 と、姉と一緒に苦笑した。そう、この頃から俺はどうでもいいことだけは知っていた。ちょっとした雑学があったということだ。たぶん、百科事典のおかげだったろう。

 俺たちは清水インターチェンジで下りた。下りてすぐにあるおにぎり屋の公衆電話から伯父の自宅に連絡を入れると、十五分ほどで伯父が車で来た。伯父の家も団地だった。ただ、ウチと違うのは二階だったことである。

 車を降りた俺は、まっしぐらに祖母を目指した。興奮しすぎていたからだろうか、正直言ってこのときのことは良く覚えていない。

「おばあちゃん―――」

 俺はただただ嬉しくて、祖母に抱きついただけだった。祖母が何を言ったかも覚えていない。

 清水に来て驚いたのは、祖母は階段の上り下りができず、相変わらず外出していないということだった。

「そんならウチにいても同じやないか、この嘘つきクソババァ!」

 と、改めて母を恨んだことだけははっきりと憶えている。今にして思えば、父が来て同居することになったために祖母を伯父のところに預けた母の気持ちもわからないではないが。

 清水市での日々は、久々に祖母と一緒にいられたという喜びからか、細かなことは覚えていない。その分、四日市に帰る時の記憶は鮮明だ。寂しく、悲しかったからだろう、

 「帰りたくない! ここに残る!」

 と言って泣きわめき、母を困らせた。

 「春休みも必ず来る」

 と約束してくれたので、渋々帰ることにした。

 四日市ではいつもの生活が待っていた。だが、少々違っていたのは、「次の休みになれば必ず祖母に会える」という期待で支えられていたことだろう。

 こうして春休みになった。俺は母に約束を果たしてくれることを求めたが、答えは

 「仕事が忙しいで無理やわ。夏休みまで待っときなさい」

 だった。祖母に会うことだけが心の支えだった。約束を破られるなんて絶対に我慢できなかった。俺はついつい口走ってしまった。

 「なんじゃ、連れてくって言ったやないか。この嘘つきクソババァ!」

 母がはっとした顔をして、動作が一瞬止まった。だが、すぐに元に戻って、

 「何っ? 今なんて言ったん?」

 同時に、母の足が飛んできて俺は後ろに吹き飛んだ。母はまさに鬼のような形相をしていた。蹴りが至るところを直撃した。俺は頭を抱え、横向きに丸まって心の中で叫んでいた。

 「クソババァ! 鬼ババァ! クソっ、死ね、嘘つきババァ!」

 結局、祖母のところには行けなかった。(vol.14)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その15 第一章/人間形成(白痴) 「おい、なんとか言えよ、この白痴!」、俺は「はくち」なる言葉の意味を知らなかった。「ねえ、おねえちゃん、"はくち"って何?どういう意味?」姉の説明を聞いて、俺は泣けるだけ泣いた。この頃(2年生後期から4年前期の間)、俺は二回焼身自殺を試みている。(vol.15)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 「メディアには色々と言われてるけど、誠端はウチには優しかった」

 「誠端は見た目こそ怖いけど、仲良く一緒に頑張ろうというスタンスで接してきてくれた。それこそ同じ飲食店だったから、オリーブオイルとか調味料の貸し借りをしたこともあるし、それ以外にもスニーカーの話もしたね。

 『NIKEのエアジョーダン持ってるよ』って楽しそうに話してて、僕にとっては友達みたいな関係だった。それが事件以降、パッタリと見かけなくなったから心配で『大丈夫?』とLINEも送ったんだけど、既読のままで返信がなくて。色々あってバタバタしてるんだろうなと思ってたら逮捕されてしまって驚いたよね」

 とサンエイ商事のダイニングバーが入居するビル近くの飲食店店主は関根誠端について話した。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <白痴>

 新学期、休んでばかりいた俺も三年生になれた。昭和五十三年四月のことである。

 始業式に出ると、クラス替えがあることを耳にした。俺は「どうか木村たちと同じクラスになりませんように」と神様に祈った。

 祈りは通じたようで、木村、川原とは別の組になった。

 この二人がいなければ別に問題はない。他にもちょっかいを出してくる連中はいたが木村たちの命令でしていただけのことで、奴らがいない時は普通に接してくれていた。それどころか、いろいろと話し掛けてくることさえあったのだ。 

 しかし、ちょっと気になることがあった。

 自分のクラスのメンバーを確認した時、豊島の名前を見つけたのである。

 すでに述べたが、学年で一番ケンカが強いのは大島という奴だった。その大島と同格と見なされていた悪ガキが豊島だった。体格が良くてケンカも強かったので、大島同様、豊島には木村や川原でさえ頭が上がらなかった。

 しかし、豊島とは会って話したこともなかったし、向こうも俺のことは気にしていないようだった。それで、「まあいいか」ぐらいにしか思わず、木村たちと別のクラスになったことを素直に喜んだ。

 だが、それは束の間の喜びだった。俺は本当のイジメというヤツをここから知る事になる。

 最初の二、三日は昼までに学校が終わって平穏に過ぎたのであるが、問題はその直後に起きた。

 朝、教室に入ってランドセルを片付け、席についた時、木村たちが教室に入ってきたのである。反射的に「逃げなければ」と思った俺は席を立とうとしたが、木村たちは俺のところには来なかった。豊島のところに行って何やら話し始めたので、安心した俺はそのまま席についていた。

 ところがである。おもむろに俺を呼ぶ声がした。

 「野村、ちょっと来いよ」

 豊島だった。「イヤやなあ、行きたないなあ」と思いつつも、拒否すれば何をされるわからない。

 「なーにー、何か用かあ」

 と、ことさらとぼけた口調で豊島たちの方に行った。すると、豊島がいきなりこう切り出したのだ。

 「お前、馬鹿なんやってな。算数の計算もできへんのやってな」

 木村たちから聞いたのだろう。その頃、俺は確かに「自分は馬鹿だ」と思っていた。それだけに何も言えずにうつむいていると、豊島がさらに続けた。 「お前、馬鹿ならここにおったらあかん。特殊学級へ行けよ」  ここで特殊学級の説明はしない。ただ、当時の風潮として、特殊学級の生徒を馬鹿にしたりいじめたりする傾向があったことは事実である。

 俺も、特殊学級がどんなものであるかは知っていた。自分と他の人との違いに悩んでいた俺は、「ボク、本当はこのクラスなんじゃ」と考えたこともあった。しかし、こうもはっきりと人から言われると悔しさが込み上げてくるではないか。だが、当時の俺には「違うわ、バカヤロー」と啖呵を切って、豊島たちに食ってかかる度胸はなかった。

 無言でいると、豊島はさらに続けた。

 「おい、なんとか言えよ、この白痴!」

 俺は「はくち」なる言葉の意味を知らなかった。それで、

 「"はくち"って何?」

 と、そのまま疑問を口にすると、豊島は

 「お前、白痴も知らんのか? アホ、お前のことじゃ」 

 と木村たちと笑った。

 俺は何のことだかサッパリわからずポカンとしていたが、豊島たちはさらに大げさに「はくち、はくち」と煽った。やがてチャイムが鳴り、誰かが「先生が来たぞ−」と言ったので木村たちは走って教室から出て行き、俺は自分の席に戻った。

 その日の夜、家で俺は昼間の疑問を姉に訊ねてみた。

「ねえ、おねえちゃん、"はくち"って何? どういう意味?」

 姉の説明を聞いて、俺は泣けるだけ泣いた。

 結局、俺は二年生の時と同じようにしょっちゅう学校を休んだ。登校した日は豊島たちに「おい、白痴。あれとってこい」だの、「おい、白痴。俺の替わりに掃除当番やれ」だのと、使い走りにされた。使い走り自体は殴られるよりマシだったが、「白痴」と呼ばれるのは殴られるのと同じか、それ以上に苦痛だった。

 この頃(2年生後期から4年前期の間)、俺は二回焼身自殺を試みている。理由は「白痴」と罵られて苦痛だったことと、相変わらずおねしょが直らず、「ボクなんかが生きていても意味ないんや」と思い込んだことだ。焼身自殺を選んだのは、「死んだら火を付けられるんだから、ボクも自分に火をつけて死のう」と考えたからだ。二回とも幸い未遂ですんだが、うち一回は新聞紙に火をつけたところで人に見つかって、それを山の方に捨てたために山火事になったことがあった。(vol.15)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その16 第一章/人間形成(万引き) 万引きは泥棒と同じで、悪いことなのはもちろんわかっていた。しかし、盗んだものを豊島に渡せば、白痴と呼ばれず、殴られもせず、逆に誉められるのだ。当時の俺は、奴隷のように扱われないようにするためには万引き以外の方法を知らず、その日を境に率先して盗みを働くようになった。(vol.16)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 その一方で、関根誠端被告の内縁の妻であると同時に、宝島夫妻の長女でもある宝島真奈美被告については、サンエイ商事の従業員たちからも「無実」を訴える声が圧倒的に多かった。

 ダイニングバーの社員も「裁判の結果次第だけど、真奈美さんは(犯行を)やってないと思ってる」と言う。前出の飲食店店主も、「真奈美さんはお店を立て直すために頑張ってたので逮捕されたのは信じられない。何かの間違いであってほしいという気持ちしかない」と肩を落とす。

「これまで真奈美さんは頻繁に店に来る人じゃなかったけど、誠端が逮捕されて、6月初旬にダイニングバーが再開してからはよく見るようになった。それこそ店で毎日のように打ち合わせをしていて、小さなお子さんも2人連れてきてたから大変そうだった。

 顔もやつれてたし『疲れてる』と口にしてたんだけど、通りにあった『ホルモン番長』という店に関しては思い入れがあるようで、『両親が生前から大切にしていた店だから続けていきたい』と話していたのを覚えてる。最後に真奈美さんと会ったのは逮捕される2日前で、そのときも『おはよー、お疲れさま!』と声をかけてくれてとくに変わった様子もなかった」

 冬の寒空の夜に、真奈美被告は一人なにを考えているのか。事件から八カ月が経っている。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <万引き>

 幼い頃は一歳成長するごとに行動範囲はどんどん広がってゆく。遊ぶところも当然遠方まで及んでくる。三年生になって、それまでバスで通っていた耳鼻科にも自転車で行くようにもなり、たまには近鉄四日市駅前の商店街や一番街に足を伸ばしたりすることもあった。

 四日市駅前の商店街まで出かけた時、豊島たちにバッタリでくわした。先に向こうに見つかってしまったのだからツイていない。

 「おい白痴、何しとるんや、ここで」

 そう声をかけられたのは、四日市駅前の商店街にある大型書店の前だった。見ると、豊島、木村、川原に、大島までいた。連中だとわかった途端、俺は逃げようと思ったが、足がいうことをきかなかった。この日は谷村はおらず俺一人だった。

 そうこうしているうちに豊島が近づいてきてこう言った。

 「白痴、ちょうどよかったわ。お前、ジャスコ行ってカセットテープ取ってこい」

 ジャスコとは、当時一番街の入口のところにあった五、六階建ての大型スーパーのことである。

 俺はジャスコのことは知っていた。だが、話の後半部分がわからなかった。というより聞き違いをしていたらしい。

 「えっ、でもボクお金ないよ」 

 俺は、豊島に「カセットテープを買って来い」と言われたと勘違いしたのである。もちろん、お金は千円くらい持っていた。本を買うため書店に入ろうとしたところを呼び止められたのだから、金がないというのは嘘だった。

 「アホ、ちゃうわ。買うてこいて言うとらんわ。取って来いて言うたんや。やっぱ白痴やなあ」

 と豊島が笑ったが、大島は笑わず、

「豊君、何、白痴って?」

 と質問した。豊島たちが、俺が白痴と呼ばれるようになった経緯を説明しても大島は

 「白痴なら"万引き"も知らんのとちゃう?」

 と怪訝な顔をして、

 「おい、木村。お前、こいつに教えたれよ」

 と続けた。

 木村は、気は進まないが仕方ない、といった顔をしていたが、

「ついて来い」

 と俺に言うと、川原に

 「行くぞ」

 と声をかけてジャスコに向かって歩き出した。

 店に着くと、何階かは覚えてないが、電気店とレコード店が連なるフロアに上った。木村は俺に

 「よく見とけよ」

 と言いながら、カセットテープが並ぶあたりに移動した。周囲を二、三度見まわしてから素早くテープを手に取り、上着の首の部分に入れた。なんのことはない、万引きとは泥棒だったのだ。

 盗みを成功させた木村は、

 「行くぞ」

と俺に声をかけてエスカレーターに乗った。後から川原もついてきた。

 再び書店の前に戻ると、木村は上着をめくって腹のあたりからテープを出し、豊島に渡した。いつ盗んだのだろうか、川原も同じように腹からテープを出した。二人の顔は満足げだった。

 それから俺は、大島と豊島の命令で、木村たちと同じことをするためにジャスコに行かされた。結局、俺もテープを盗んで豊島に渡した。思いの他簡単だった。

「なんや、やればできるやないか、野村」

 豊島がそう言った。このとき、俺は「野村」に戻っていた。

 万引きは泥棒と同じで、悪いことなのはもちろんわかっていた。しかし、盗んだものを豊島に渡せば、白痴と呼ばれず、殴られもせず、逆に誉められるのだ。当時の俺は、奴隷のように扱われないようにするためには万引き以外の方法を知らず、その日を境に率先して盗みを働くようになった。

「どうやってうまく万引きするか」で頭の中が一杯だった俺が思いついたのは、「買ったことにして店から出ればいい」ということだった。方法は簡単だ。生桑と一番街のジャスコ、それに近鉄百貨店でやればいいのである。

 当時、この手の大型店では、買った商品には店名の入ったシールを貼るか、店が指定する袋に入れるかだった。逆に言えば、シールが貼ってあるか、袋に入っていれば「精算済み」と見なされたのである。であれば、袋かシールを手に入れれば、商品を持って堂々と店から出て行くことができることになる。

 ところが、それらの入手は意外にも簡単だったのである。この手の店はレジが一時的に係員不在になることがよくあったので、その時を見計らって失敬すればいいだけだったのだ。

 ただ、気をつけねばならないこともあった。袋に入れたり、シールを貼ったりするところを見られれば一巻の終わりということだ。そのためには見つからないように見張りをつける必要性があった。学校に行った時に大島と豊島に相談すると、二人の答えは予想通りで、「木村と川原とやれ」というものだった。

 それからは万引きのし放題だった。何せ袋に入れるかシールを貼るだけでいいのである。釣り竿のような長いものでも、シールを貼るだけでそのまま肩に掛けて堂々と店を出ることができた。ローラースケート、プラモデル、ラジコンにミニカー・・・・・何でもありだった。

 俺のアイディアは、俺の立場を安定させることに役立った。大島が評価してくれて、木村、川原に対して「野村に手を出さないこと」「野村の指示で動くこと」を言い渡したのである。万引きのおかげで、俺のポジションは木村たちより上になったわけだ。

 大島たちと付き合い出してわかったことだが、大島も豊島も俺と同じ団地に住んでいるようで、今まで出くわさなかったのが不思議なくらいだった。もっとも、この二人は二年生の時から万引きの常習犯だったというから、俺とは行動範囲がまったく別のところだったということだろう。

 悪ガキ連中に認められた頃、俺は以前仲のよかった谷村とはあまり遊ばないようになっていた。谷村の父が病気で入院し、見舞いと世話で忙しかったのだ。また、谷村には幼い妹がいて、その面倒も見なければならなかった。

 で、当の俺はというと、イジメがなくなったので毎日学校に行きそうなものだが、相変わらずサボることが多かった。木村たちがどうのではなく、俺はもう学校という場所自体が嫌いになっていたからである。(vol.16)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その17 第一章/人間形成(力関係の変化と与えられた地位) 木村と川原は俺のことを「野村君」と呼ぶようになっていて、数ヶ月前は「白痴」「馬鹿」、良くて「野村」と飛び捨てだったことを考えると破格の待遇と言ってよかった。ただ、俺の地位はあくまで万引きを介して作られたもので、しかも大島と豊島に与えられたものに過ぎなかったが、俺はそのことに気付いていなかった。(vol.17)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 17店舗あった飲食店帝国は瓦解、刺青男と長女が次々に逮捕、次女が新社長で再出発。残った従業員は「セイハ被告を慕っていました」

 宝島ロード。東京・上野の繁華街で同業者にそう揶揄されるほど飲食チェーンを集中展開し栄華を誇った焼肉王国は、主を失いあっという間に瓦解した。

 身内のクーデターで惨殺された宝島龍太郎さん(当時55歳)と妻の幸子さん(同56歳)は草葉の陰でいま、何を思うのか。

 「妹さんが代表って話は聞いているよ」

 宝島さんが社長を、幸子さんが役員を務めて切り盛りしていた「サンエイ商事」は焼肉店を中心にした飲食店を少なくとも17店舗以上、JR上野駅近くで経営していた。

 ライバル店との客引き合戦なども熾烈を極め、4月16日に栃木県内で夫婦が惨殺体で見つかった際も、長女が「正直、敵は多かった。同業者に狙われていたのかなと思う」とほのめかしていた。

 しかし実際、犯行計画を練ったのは夫妻の「番頭」として経営に加わっていた長女の内縁の夫・関根誠端被告であり、長女の宝島真奈美被告も共犯として罪に問われたのは既報の通りだ。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <力関係の変化と与えられた地位>

 いろんな物を万引きしてくる俺たちに、大島と豊島は「ラジカセを手に入れて来い」という命令を下した。これは厄介な仕事だった。ラジカセは当時としては人気の商品で高価でもあったことから、万引き防止策として鎖で陳列台から離れないようにしてある店がほとんどだったのだ。

 なぜそんな難しいものを狙わねばならないのかというと、豊島の二歳上の兄とそのグループが、大島と豊島に命令したからである。今まで俺たちが万引きしていた品物の多くも、豊島の兄たちに流れていた。

 盗んでこいと言われて盗んでこなければ、俺は元のように「白痴」と呼ばれ、殴る蹴るの憂き目にあう。頭を働かせて、なんとか方法を考えなければならなかった。

 前回の袋とシールの件から「現場に行って観察すれば何かアイディアが浮かぶのでは」と思った俺は、土曜の昼から生桑のジャスコをぐるぐる回ったが何も思いつかなかった。だが、日曜日に一番街のジャスコに行って店の様子を観察していると、ふと閃くものがあった。

 電機製品を買いに来た客は、店員を呼んで買いたい商品の前に行く。客が指定する商品を確認した店員は、そこを離れてどこかに行く。俺は店員の後をつけてみた。すると、両開きの扉を押して中に入り、しばらくすると大きな箱を持って出てきた。それを客に見せ、一緒にレジに行く。客が精算すると、店員は去っていった。

 俺は思った。 「倉庫だ!」

 NHK教育テレビの「はたらくおじさん」で見たことがある。スーパーや百貨店には「倉庫」というものがあって、そこには山のように商品が眠っているのだ。ということは、無理に陳列台から失敬するのではなく、倉庫からラジカセを盗み出せばいいことになる。ただし、シールや袋の時と同じように、見つかっては大変だから見張りをつけることは絶対条件だろう。

 翌日、俺はその考えを早く大島たちに伝えたくて、いつもよりかなり早く家を出た。集団登校の嫌いな大島たちは、いつも早めに学校に来ていた。俺は大島たちを見つけて、数日かけて考えた策を得意げに披露した。大島と豊島が「一回、盗ってこいよ」と命令したのは言うまでもない。

 次の土曜日、俺は木村と川原と一緒に一番街のジャスコに行って作戦を実行した。簡単だった。川原が倉庫の外で見張りに立ち、俺と木村が中に入ってラジカセの箱を探す。見つけてシールを貼り、袋に入れて外に出る。俺と木村で一台ずつ盗んだ。

 ジャスコを出ると、例の書店の前で大島たちと合流した。万引きしたラジカセは袋ごと渡した。このとき大島が「すごいな」とか「よくできたな」とか驚いた様子だったので、俺は自慢げに言った。

「二人中に入って二台やで、みんなで入ったら五台盗れるよ」

 大島が何か企んだような顔で豊島を見ると、豊島は「兄ちゃんに相談してみるわ」と言った。

 その翌日、大島たちが俺を呼びに家まで来た。といっても、実際に五階まで上がってきたのは川原一人で、下に下りると大島、豊島、木村が待っていた。三人は上まで来るのが面倒だったので、一番下っ端の川原を呼びに行かせたのだろう。

 その頃の序列は、大島と豊島が同格で、次が俺、その次が木村、そして川原という感じだった。木村と川原は俺のことを「野村君」と呼ぶようになっていて、数ヶ月前は「白痴」「馬鹿」、良くて「野村」と飛び捨てだったことを考えると破格の待遇と言ってよかった。ちなみに、大島と豊島はお互いを「大君」「豊君」と呼んで、俺以下は呼び捨てである。逆に俺たち三人はお互いに君付けで呼び、もちろん、上の二人に対しても君付けだった。

 ただ、俺の地位はあくまで万引きを介して作られたもので、しかも大島と豊島に与えられたものに過ぎなかったが、俺はそのことに気付いていなかった。(vol.17)


ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生、歴史は繰り返されるのか!?「死刑でチャラでいいやん」、主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開 その18 第一章/人間形成(万引き失敗) 警官たちは警備員と小声で話した後、「ぼくら、おっちゃんらとパトカー乗ってこか」と声をかけてきた。俺は「うわっ、パトカーに乗れる」と素直に喜んだ。他の二人も顔がほころんでいたので、たぶん俺と同じ気持ちだったのだろう。(vol.18)

 <ドラム缶女性焼殺事件から24年後に那須焼損遺体事件が発生>

 経営方針を巡って対立、力ずくで経営権を宝島龍太郎さん(当時55歳)と妻の幸子さん(同56歳)夫妻から奪うために汚れ役の「バイト」を雇って殺害させた未曾有の強行事件で、「宝島ロード」もズタズタに寸断され、今も営業を続けているのは4店に過ぎないという。

 宝島夫妻と長年付き合いのあった取引業者の男性によれば、サンエイ商事の経営は、宝島真奈美被告の妹が継承したようだ。

「まだ会ったことはないけど妹さんが代表って話は聞いているよ。ただ、妹さんが事件の説明をしたわけでもないし、踏み込んだ話も聞かないから実質誰が仕切っているとかはわからない。おそらく実際に店を切り盛りしているのは妹さんではなくて、宝島社長時代の頃から働いていた何人かで話し合っているところなんじゃないか。

 ドラム缶女性焼殺事件と那須焼損遺体事件の両事件の根底に流れる闇を検証するために、ドラム缶女性焼殺事件の主犯格・元死刑囚・野村哲也(2009年1月29日死刑執行)幻の手記を全文公開して、その闇を考察していく。

 <万引き失敗>

 五人で行って五台のラジカセを盗るという計画は実行に移されることになった。恐らく、豊島の兄がゴーサインを出したのだろう。ただ、プランに若干の変更があった。目的地のジャスコに行く途中、大島が

「俺と豊君で見張りするから、お前ら三人で中に入れ」 

 と言い出したのである。で、その作業を二回行なう。都合六台盗めということだった。

 最初の三台はうまくいった。だが、二回目で失敗した。木村が倉庫にはいるところを見られてしまったのである。見張りのどちらかが木村の名前を叫んだ。その時、駆け出す足音が聞こえてきたから、大島と豊島は逃げ出したのだろう。

 入れ替わるように倉庫の中におとなの男が入ってきて、「出て来い!」と言ったので、俺たち三人は前に出た。

「今逃げてった二人は友だちか?」

 と、男は訊いてきたが、三人とも黙ってうつむいているだけだった。

「まあ、ええわ」

 男はそう言って、近くのインターフォンに手を伸ばして誰かに報告した。それから警備員が二人来て、俺たちは警備室に連れて行かれた。

 警備室に入ると、俺たち三人は応接セットのソファに横並びに座らされた。そして警備員の一人が質問してきた。内容は、住所、氏名、電話番号、学校名、学年だった。三人とも全て本当のことをしゃべった。続いて、

「で、逃げてった二人は友だちか?」

 と、倉庫で出たのと同じ質問が来た。三人とも口を閉ざすと、警備員はため息をつきつつ、「まあええわ、言いたないんなら」と言った。

 俺はこの言葉にホッとした。木村、川原がどう思っていたかはわからないが、少なくとも俺は、奴らの名前を絶対にしゃべらないつもりだった。言ってしまえばパラシュートが待っていることはわかっていた。

 ちなみに、俺が万引きで捕まったのはこれが初めてではなかった。シールと袋のアイディアを思いつく前、一人でカセットテープを盗もうとして生桑のジャスコで捕まっている。その時は初めてということもあり、母が呼ばれて謝るだけで済んだ。頭を下げる母を見ていて、「ザマァ見ろ、このクソババァ」と、やけにいい気分になったことを覚えている。もっとも、家に帰ってからは母に殴られて、今度は「何すんじゃ、このクソババァ」と腹を立てることになったのだが。

 沈黙が十分くらい続いたあと、二人の警官が入ってきた。彼らの仕事がどんなものであるかは当然知っていが、その時思ったのは「何しに来たんや」ということだった。警官たちは警備員と小声で話した後、 「ぼくら、おっちゃんらとパトカー乗ってこか」

 と声をかけてきた。俺は「うわっ、パトカーに乗れる」と素直に喜んだ。他の二人も顔がほころんでいたので、たぶん俺と同じ気持ちだったのだろう。 

 三人とも後部座席に乗せられた。パトカーが動き出すと、俺はワクワクしながら車の中を観察した。車内は全て黒で統一され、運転席と助手席の間のパネルには丸い大きなメーターがあった。その下のスピーカーからは、ガーガーという雑音と一緒に無線の声が聞こえていた。

 俺は一番右に座っていたので窓を開けようとしたが、そのための取っ手が見当たらなかった。ドアを開けるノブもなかった。不思議に思った俺は質問した。

「おっちゃん、この車、窓開かへんよ」

 木村と川原も「ほんとやー」といぶかしがった。

 俺たちが口々に「なんでー」と訊ねると、助手席に乗っていた警官が後ろを振り向いて言った。

「それはなあ、捕まった悪い人が勝手に逃げれんようにするためやね」

「えー、悪い人ってどんな人なん?」

「それはなあ、ボクらみたいなやっちゃあ」

 警官は苦笑を浮かべていたが、今にして思えばあれは我々三人を皮肉った笑いだったのだろう。だが、当時の俺たちにはそんなことが通じるはずもなく、一緒になって笑った。(vol.18)

■政治団体「日本を正す政治連盟」ご支援のお願い
■ 佐藤昇は、政治団体「日本を正す政治連盟」を改組発足して代表に就任しました。

 その目的は、立憲民主主義の理念に基づいた「自由・自主・自立・自尊・平等」の精神、「言論の自由・表現の自由・報道の自由」等の国民の権利を守り、@政治(立法)を正す、A官僚(行政)を正す、B司法を正す、C企業(みずほ銀行等)を正す、D報道(朝日新聞等)を正す、E世の中(倫理・道徳)を正す等、日本を正すために必要な政治活動を行なうことです。(詳細はPOLITICSにて)

 何卒、賛助金等のご支援の程、よろしくお願い申し上げます。

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■会員登録料のお支払い
個人会員 年間登録料 60,000円
法人会員 年間登録料 240,000円
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■お振込先
三菱東京UFJ銀行 亀戸北口支店 普通 0033595
週刊報道サイト株式会社

■お問合せ先メールアドレス
 メールアドレス info@hodotokushu.net

佐藤昇君を応援する会

有志のジャーナリストの仲間たちが設立してくれました。http://hagemasukai.com

日本政府公式ウェブサイト掲載の週刊報道サイト


「週刊報道サイト」は、全省庁統一資格の有資格者として、日本政府公式ウェブサイトgBizINFOに報道機関として掲載されております。
 詳細については令和6年9月23日記事をご参照下さい。


    

東京地方裁判所公認のジャーナリスト佐藤昇

「佐藤昇」は、東京地方裁判所による、平成27年(ワ)第13632号判決及び平成27年(ヨ)第59号決定において、公式に「ジャーナリスト」として認定されております。詳細は PROFILEにて
「ジャーナリストの王者 (チャンピオン)」を襲名
創刊7年目で発刊300号に到達
創刊10年目で発刊400号に到達
創刊11年目で発刊450号に到達
創刊12年目で発刊456号から再スタート

「真夏の法曹祭」(令和元年8月1日開催)の風景

ジャーナリストの王者」佐藤昇が主催する第28回「真夏の法曹祭」の風景。中込秀樹弁護士(名古屋高等裁判所元長官)が法曹界の秘密の裏話を語る。詳細はSCHEDULEにて。

日本を正す政治連盟

ジャーナリストの王者」佐藤昇が代表者に就任して、政治団体 「日本を正す政治連盟」を改組発足しました。随時会員募集中です。 詳細はPOLITICSにて。

官公需向広告掲載募集

週刊報道サイトは、独立行政法人中小企業基盤整備機構運営「ここから調達サイト」に取引候補企業として登録され、官公需向広告掲載募集を行っております。

詳細については9月9日記事をご参照ください。

会社内におけるパワハラ・セクハラ等の人権問題相談窓口

 秘密厳守の上、弁護士他専門スタッフを派遣するなど、問題解決に尽力します。
 まずはご一報を。

相談窓口メールアドレス info@hodotokushu.net

家庭内におけるDV(家庭内暴力)・中年の引きこもり等の問題相談窓口

 秘密厳守の上、弁護士他専門スタッフを派遣するなど、問題解決に尽力します。
 まずはご一報を。

相談窓口メールアドレス info@hodotokushu.net

告知・ご注意

 週刊報道サイトの関係者であると名乗り、承認なく勝手に活動した上、恐喝・恐喝未遂を行っている者が存在するとの告発が寄せられております。
 なお、石坂幸久・中山登支彦(中山利彦)は、週刊報道サイトと一切の関係はありません。
 ご不審な事象がありましたら、お問合せ願います。

お問合せメールアドレス info@hodotokushu.net

新聞媒体配布の御案内

 週刊報道サイトは、インターネット上だけでなく、新聞媒体でもって、事件発生地域周辺へ集中的に配布する報道活動も行っております。
 マスメディアが扱えない、小さなメディアでしか報道できない事件を、相応の活動支援をして下されば、ゲラ作成から校了印刷し配布までの報道活動を請け負っております。
 新聞媒体を集中配布後は、地域住民から「よくやってくれた」と賛意や感謝の激励の言葉が数多く寄せられてきております。
日光東照宮(国宝陽明門竣工式)
稲葉尚正権宮司
稲葉久雄宮司
福原ソープランド界隈の礼儀知らず者?
徳島銀行М資金
ローソン玉塚元一会長М資金退任(週刊新潮)
小泉勝志賀町長学歴詐称(オンブズマン志賀)
 他多数実績有

朝日新聞を正す会

■平成27年2月9日、東京地方
 裁判所へ482名で提訴(vol.1)

■平成28年8月19日、甲府地方裁判所へ150名で提訴(vol.59)

■平成28年9月30日、東京高等裁判所へ229名で控訴(vol.60)

「朝日新聞を糺す国民会議」との盟約締結(vol.12)
■提訴の経緯(vol.56)
■会報(一面二面三面五面
■関行男大尉を偲ぶ(vol.17)
南京大虐殺はあったのか?(vol.30)
公式ホームページ
原告団弁護士米山健也弁護士
原告団事務局長 佐藤昇
訴状PDF
訴訟委任状PDF
問合せ先info@hodotokushu.net

大樹総研(矢島義也)

民主党議員(細野豪志ら)が群がる大樹総研(オーナー矢島義也)という実態のない団体の正体。乱交パーティーか?

カジノ解禁法案反対

セガサミー里見治自宅銃撃事件の真相を報道する

サントリーと暴力団

サントリーに完全勝利する

■サントリーが暴力団住吉会副会長へ利益供与を実行した事実の隠ぺい工作の全貌   

アライオートオークション小山

荒井商事主催アライオートオークション小山におけるメーター改ざん詐欺を争う裁判が勃発     

山崎製パン

山崎製パン大阪第一工場において異物混入したまま商品を出荷したとの内部告発文書を検証する

地位確認等請求事件への内部告発を検証する

福島県除染偽装事件等

福島県と三春町への取材結果

大林道路福島営業所への突撃取材結果

仙台震災復興生コンクリート工場詐欺事件    

リミックスポイント

國重惇史辞任

関係者4名逮捕

暴力団●道会関与か?

架空採石権4億円設定!

真珠宮ビル跡地

買付証明売買予約金策祝杯上客赤富士裏金枠偽造本間吉偲ぶ会一条工務店?刑事告訴予告公売か?武蔵野ハウジング東京都主税局徴収部とのルート構築イーストシティ藤江克彦が逃走    

齋藤衛(佐藤茂秘書?)

檻に3日間閉じ込められた後に埋められた齋藤衛氏(リュー一世・龍一成)を追悼する

イチロー選手

実父チチローから「殿堂入りする位の親不孝者だ」と言い放たれるイチロー(鈴木一朗)選手の資産管理会社IYI社の実像

阪神西岡剛選手

暴行傷害事件疑惑(診断書)・猿芝居感謝状

国立国会図書館

 週刊報道サイトは、国立国会図書館に納本され、国民共有の文化的資産として期限なく保存され続け、後世に継承されることになりました。
 詳細については9月9日記事をご参照ください。

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お知らせ

内閣官房拉致問題対策本部事務局のバナーを上記に掲載し、2014年4月1日より、北朝鮮による日本人拉致問題の啓発活動を行うために、弊社独自取材による連載記事を開始しました。皆様のご支援をよろしくお願いいたします。

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<活動ご支援金振込先>
三菱東京UFJ銀行
亀戸北口支店 普通
 0033595
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京都・中山記念館

マルハン韓昌祐会長(vol.5)

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〒136-0071
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